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ベルグソンのエスプリ


エスプリはきわめてフランス的な概念だ。それに相当する言葉、要するに翻訳上対応する言葉は、英語ではスピリット、ドイツ語ではガイストということになるのだろうが、厳密に一致しているわけではない。意味の上にずれとか行き違いがある。このエスプリをベルグソンはもっぱら笑いとの関係において取り上げる。ベルグソンによればエスプリは、笑いの根源であるおかしみの、言葉の上での表れということになる。それを日本語で表記すれば機知ということになろう。

行動や振る舞いにおけるおかしみの原因は、機械的なこわばりとか放心を思わせるような自動現象だった。それは通常社会が人に期待している行動様式から逸脱した場合に、社会の側が発する警告の意味を持つものであった。エスプリにもそういう警告の側面を強く指摘できる。それは笑いにかわる警告の手段である。一方エスプリは、笑いを誘うものでもある。エスプリはだから、笑いの主体(笑うもの)でありながら、客体(笑われるもの)でもあるという二重性格をもっている。そこが通常の滑稽とかおかしみとかと違ったところだ。滑稽やおかしみは笑われる対象ではあっても、笑う主体にはなりえない。

ベルグソンはエスプリの様々な様態について細かい分析を行っている。(行動や身振りを伴う)状況における滑稽の要因として、くりかえし、ひっくりかえし、取り違えといったものをあげながら、エスプリにもそれに対応するものがあるというのであるが、もっとも重視すべきは、移調と呼ばれるもので、これは荘重なことがらを卑近な言葉で述べたり、その反対にちっぽけなことを大げさな言葉で述べるといったものである。

荘重な事柄を卑近な言葉で述べるのはパロディの常套手段である。ちっぽけなことを大げさにいうのは誇張ということになるが、誇張はまたユーモアの源泉である。パロディもユーモアも、本来あるべきことを、それとは反対の内容を持った言葉で表現することから生まれる。そういう芸当が可能なのは、かかわりのある二つの事柄に一定の対応関係があるからだ。全く無関係であれば、互いに関係付けることはできない。その関係付けが可能になるのは、二つの事柄に意味上の共通点があるからだ。意味上の共通点で二つの事柄を結びつけるというのは、比喩の働きである。ということは、言葉によるおかしみとしてのエスプリは、比喩を基礎としているといえそうである。

移調のなかでもっとも一般的なものは反語だとベルグソンはいう。反語とは、ある事柄の意味内容を、それとは全く逆の事柄の意味内容で表現することだ。たとえば、矮小な統治者を偉大な才能の持ち主だといってみたり、死ぬことが生きることの目的だといってみたりすることだ。哲学史上、反語という言葉は、ソクラテスやキルケゴールも重用しており、かれらなりの使い方の規則があったわけで、かなり垢の付いた言葉なのであるが、ベルグソンはこの言葉を、滑稽としてのエスプリとの関係においてだけ意味づけている。

そんなわけで、反語といい、エスプリといい、ベルグソンの言葉の使い方はかなり限定的である。エスプリという言葉には、ユーモアとかウィットとかいった(笑いとしての)要素も無論あるが、それ以外に、洒落た機知といった意味合いもある。その意味で使ったのが、日本の九鬼周造である。九鬼は「いきの構造」という本のなかで、フランス語のエスプリに相当する日本語として「いき」という言葉を取り上げ、その言葉の語源的・文化的背景についてかれなりの分析をしている。九鬼の「いき」は「粋」という漢字でも表されるとおり、笑いの要素よりも、洒落の要素を重視している。洒落には無論笑いも含まれるが、その他に洗練されたというような意味合いもあり、九鬼はむしろそちらのほうを重視している。かれが「粋」の最たるものとして持ち出すのは、洒落た模様のことなのである。模様が笑いを誘うことはあまりないから、模様を典型例とする九鬼の「いき」説が、笑いの理論でないことはたしかである。

笑いとしてのエスプリが、人をたわめる作用をする限りにおいては、それは露悪的な面を持っている。露悪的であり、かつ理知的なのである。ユーモアというものがきわめて理知的なものであることは古来周知の事柄だったが、そのユーモアはエスプリのもたらす作用である。エスプリは、人間のもっとも人間らしい表現、つまり世界を理知的に分節し、対象を一定の枠に押し込めようとする人間の認知活動の本質的な要素なのである。

そんなわけであるから、ベルグソンは次のように断定するのである。「ユーモリストは科学者の仮装をしているモラリストであり、我々に嫌悪の情を起させることを目当てに解剖している解剖学者みたいなものである」(林達夫訳)。ベルグソンは別のところで、笑いは悪をもって悪を制するものだと書いたことがあるが、これをエスプリ論にあてはめれば、最初の悪は我々に嫌悪の情を起させる解剖学者の解剖ということになり、また後の悪は解剖をせまられるほど切迫した我々の病気だということになる。その病気とは、社会に柔軟に適応できないこと、つまり性格のゆがみだといえそうである。



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