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思考の映画仕掛:ベルグソンの思想


ベルグソンは、思考を映画の仕掛けに喩えることが好きで、随所で持ち出している。映画の仕掛けというのは、固定した(不動の)映像をつなげて映し出すことによって、動きを演出するものだ。動いているものが不動のものの組み合わせから生まれるというこの仕掛けは、思考に似ている。思考もまた、現象を不動の部分に切り分けたうえで、それらを組み合わせることで連続的な動きを認識する。その不動のものは、とりあえずは現象の一断面だが、それが抽象化されて概念に高まっていることもある。いずれにしても人間の思考は、動きをそのものとしてありのままに受け入れることは苦手で、不動のものの組み合わせとして認識する点で映画の仕掛けと似ているのである。

なぜそうなるのか。それは人間の思考の特徴に根ざしているとするのがベルグソンの考えである。人間の思考というのは、対象をありのままに受け入れるのではなく、人間の側にそなわっている一定の認識枠組に組み入れるという特徴をもっている。対象はこの認識枠組が捉えたもので、そういう意味では相対的で間接的なものだ。対象はあくまでも人間の認識作用の相関者なのであって、それ自体として独立した意義を持っているわけではない。その場合、思考は対象を不動のものとして捉える。動いているものは、その不動のものが組み合わさったものとして理解される。同じようにして連続は断絶したものの組み合わせである。また変化は状態の組み合わせということになる。

こうなるのは、人間の思考が行動に仕えることを本質的な役目としていることに基づく。人間は思考のための思考をしているわけではない。思考はあくまでも行動のためにある。というか、行動の不可分の構成要素と言ってよい。適切な行動をするためには、対象をきちんと理解しなければならない。その場合、対象が動いていたり不分明であったりしては、都合が悪いことになる。対象は不動のものであって、他のものから区別され、明確な輪郭を持たねばならない。つまり分節されていなければならない。この明確に分節された(不動の)対象があってはじめて、人間は有意義な行動をすることができる。対象が不動であってこそ、行動にとってのしっかりとした手がかりとなりうるからである。

かような事情のせいで人間は、動を不動によって、連続を非連続によって、変化を安定によって基礎付けようとする傾向を、生まれながらにして持たされている、というのがベルグソンの考えである。それは、人間が生きることの本質が、行動することにあるということに根ざしている。人間は、プラトンが主張したような意味での考える生きものではなく、行動する生きものなのである。そのプラトンも、精神的な原理としてのイデアを持ち出したのだったが、イデアは不動の象徴であって、その意味ではベルグソンのいう映画仕掛けの材料になりうる資格を持っている。

かような具合にベルグソンは、人間の思考の映画仕掛としての側面を強調したのだったが、そのために人間の思考が映画仕掛で終わってもよいと考えたわけではない。逆である。人間の思考の映画仕掛としての側面を踏まえたうえで、それを超克するための議論を持ち出してくるのである。人間が映画的な思考をするのは、有意義な行動をするためである。だが、人間の本質は合理的な行動をすることに尽きるわけではない、とベルグソンは考えた。合理的な行動以外に、人間のあり方にとって有意味なものはなにか。それについてベルグソンは、とりあえず芸術をあげるのだが、要するに悟性的な認識のほかに、感性的なものの重要性を強調したいということであろう。悟性的な認識は概念的な思考を本質としているが、人間の精神作用には他に直観というものがある。概念的な思考は、対象を論理的に捉えるが、したがって分節をこととするが、それに対して直観のほうは、対象を未分節なままで、一気に、ありのままに捉える。芸術とはそうした直観のうえに立っている。芸術もまた、人間にとっては欠かせない要素である。人間とは、論理一点張りでは成り立たないものなのだ。それは、人間が歴史を超越した理念的な存在ではなく、創造的進化の末に登場した生きものだということに根ざしている。その進化の過程で、悟性的なものが優位に立ったが、そのかげには感性的・本能的なものもあって、それが人間にとっては、まだまだ無視できない意味を持っているというのが、ベルグソンの考えなのである。

ベルグソンがそう考えるわけは、おそらくかれがユダヤ人であることに由来していると小生などは考えている。ユダヤ神秘主義には、独特な存在論と認識論がある。存在の本来のあり方は、他と区別(分節)された個別の存在としてではなく、あらゆるものが渾然と溶け合った全体としての存在だとしたうえで、認識の本来のあり方も、分節以前の直観を重んじる立場を、それはとっている。そうした立場、つまり認識においては直観を、存在においては全体を重んじる考えは、東洋思想に共通していると指摘したのは、日本の井筒俊彦である。井筒は、そうした東洋的な思想を、ユダヤ神秘主義も共有していると考えた。ベルグソンもまた、一ユダヤ人として、そうした思想を受け継いでいるのではないか。

もっともユダヤ神秘主義は全体や未分節を強調するあまりに、悟性的で合理的な思考を軽視する傾向が強い。それに対してベルグソンは、悟性的思考にも重要な意義を認めている。問題は、人間の精神活動を悟性の領域に局限するのではなく、直観とか非合理な部分にも着目することだというわけである。人間が生きているのは、行動するためばかりではない。行動するばかりならば、他の動物とあまりかわらない。行動以外にも人間にとって有意義な領域はある。たとえば芸術だ。人間はそうしたさまざまな領域を包み込んだ形で生きることで、真に人間らしい生き方ができる。そうベルグソンは考えているようである。



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