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夢についてのベルグソンの議論


夢についてのベルグソンの議論は、20世紀初頭における心理学や精神医学の状況を踏まえたものになっており、その点で科学的な外皮をまとっているが、かなり独特の特徴を持ってもいる。夢の精神医学的な解明という分野では、フロイトが有名であり、かれが「夢判断」を刊行したのは1900年のことである。ベルグソンはその翌年に夢についての講演を心理学協会において行っており、その記録が「精神のエネルギー」の中に収録されている。その両者を比較すると、夢を無意識が表面化したものとする点では共通しているが、フロイトがそれを無意識の願望(特に性的な)と結び付けたのに対して、ベルグソンは願望にとどまらず、もっと広い範囲の無意識な記憶内容が表面化したものだとする点で異なっている。

ベルグソンによれば、人間の精神は、表面化された意識のみではなく、表面化せずに無意識のうちに沈殿した記憶内容をも含んでいる。そうした記憶内容は、普段は意識化されることがないが、何かのきっかけで意識の表面に上ってくることがある。夢はその典型的な例である、というのがベルグソンの考えである。記憶内容の働きは、夢ばかりではなく、日常の(知覚を中心とした)意識活動にもあらわれるのであるが、それはとりあえず脇へおいて、ここでは夢のメカニズムにかかわる記憶内容の働きを分析しようと言って、ベルグソンは夢のメカニズムを詳しく検討するのである。

そこで問題となるのは記憶内容であるが、それはどのようなものか。ベルグソンによれば、われわれは何かを知覚すると同時に、それを記憶内容として無意識のうちに保存する。脳ではなく、精神の範疇に含まれるものとしての無意識に保存されるところがミソである。無意識な記憶内容とは、とりあえずわれわれにとってどうでもよいようなものである。我々の知覚は膨大なものだが、そのうち、我々にとって重大な意義を持つもの、それはこれからなすべき行動と密接なかかわりをもつような知覚のことだが、そういう一部の知覚を除いて、大部分の知覚は、どうでもよいものとして意識の表面から排除される。それらはいわば雑音のようなものであり、一々かかずらってはいられないからである。そうしたどうでもよいような知覚の記憶内容は、意識が目覚めている間は、表面化されることはない。目覚めている間は、人間は有意義な知覚しか問題にしないからである。ところが、眠りの中でのように、精神が弛緩して、意識活動が曖昧になると、無意識の底に眠っていた記憶内容が突然表面化することがある。それが夢だとベルグソンは言うのである。

この無意識の記憶内容は、アトランダムに雑然と浮かび上がってくるのだろうか。そうではない、とベルグソンは言う。そこにはある程度整然とした関係が認められると言うのである。たとえば、誰かが叫んでいる夢を見たとする。この夢をよくよく調べてみると、かならず音の知覚が伴っている。我々が寝ている間に聞いた現実の音が、記憶内容の中の音に関わる部分を呼び出し、それが現実の音と結びついて、誰かが実際に叫んでいるような内容の夢を見るのである。同じように、空中を遊泳しているような夢を見ているとき、我々の身体は横になって足が地についておらず、あたかも地面から遊離しているような状態になっている。その遊離の感覚が、空中を遊泳しているというような記憶内容と結びつくのである。

このように、夢は現実の知覚が無意識の記憶内容と結びついた結果現われる現象だというのがベルグソンの夢論の特徴である。ベルグソンは言う、「色・音、要するに物質性を得たいと渇望している記憶内容=幻のなかで、それに成功するのは、私が知覚する色付きのちり、私が聞く外と内からのノイズに同化できるような記憶内容、さらに私の有機体的印象が構成する一般的な感情の状態と調和する記憶内容だけです。記憶内容と感覚とのこの接合がなされるとき、私は夢を見るのです」(宇波彰訳、以下同じ)

こうした知覚と記憶内容との接合は、夢の中で行われるだけではない。目覚めているときにも行われる。フロイトが「誤った再認」と呼ぶ現象はその典型的なものだが、このテーマについては、フロイトは別途特別の論文を用意しているので、別稿で触れたいと思う。ここでは、通常の意識的な認識作用においても、上述したような知覚と記憶内容の接合が行われるとする主張を取り上げたい。これこそフロイトの認識論の最大の特徴をなす。

ベルグソンンの認識論は、知覚を一定の認識枠組みと関連させる点で、カントの認識論に似たところがある。カントの場合、その認識枠組みはアプリオリなカテゴリーであったが、ベルグソンはそれを無意識の記憶内容だとする。われわれが何か対象を感知したとき、それに対応する記憶内容を瞬時に呼び出し、それを対象にかぶせることで、具体的な知覚が成立するというのが、ベルグソンの認識論の主張である。だからベルグソンの認識論は、広松渉の言う二肢的な構造になっている。広松は、具体的な対象をそれ自体としてではなく、(一般的な概念としての)なにものかとして、いわば外から枠をかぶせることで、知覚が成立すると考え、その外からの枠を人間の社会的な産物だと言ったわけだが、ベルグソンの場合には、あくまでも個人内部の隠れた記憶内容なのである。

このメカニズムをベルグソンは読書を例にあげて説明している。われわれが読書するとき、文字をすべてたどっているように思われるがそうではない。そんなことをしていたら、スムーズに読み進むことが出来ない。われわれは、文字列のほんの一部を見ただけで、それに対応する記憶内容を呼び出し、瞬時にして文字列全体の意味を読み取るようになっている。我々の知的活動とはだから、現在と過去との共同の産物なのだ、というのがベルグソンの基本的な考えなのである。

以上、夢と現実の知覚を通じて同じメカニズムが働いているとベルグソンは言う。「いずれの場合も、一方では感覚器官に対してなされた実在する印象があり、他方ではこの印象のなかに入り込んで、生に戻るためにこの印象の生命力を利用する記憶内容があります」

こんなわけでベルグソンは、夢と現実の知覚とを、全く異なったものではなく、同じメカニズムで働くと考えているわけである。だからといって、夢と現実の知覚とを混同していいわけではない。夢の中では不合理と思われるような事態も当たり前のように現前する。それは夢の中では、精神が弛緩しているからだ。現実においては、われわれは膨大な知覚の中から、自分の行動にとって本質的に重要なものにしか注意を向けないが、眠っているときは、どんな対象も特権的な重要性をもたない。だからどんな種類の記憶内容でも夢の中にあらわれることができる。その中には、通常の意識にとってはありえないようなことも入り込んでくることもあるのである。

ところで夢を分析するためには、人は目覚めていなければならない。夢は寝ている間に見るもので、目覚めてしまえば速やかに消滅する。だから夢を分析しようと思えば、目覚めた瞬間にそれを記憶にとどめねばならない。これはなかなか難しいことだが、訓練次第でできるようになる、とベルグソンは言うのだ。

自分の夢を詳しく記録した学者としてはユングが有名だ。かれは自分自身が見た夢を分析することで、夢として現われる無意識な部分の構造を明らかにするよう努めた。その中には、神経症を思わせるような突飛な見解もある。じっさい、人は自分自身の夢にはまり込むと、神経症に似た症状に陥る恐れがあるようである。これは小生自身の体験に根ざした見解である。



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