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<発生と構造>と現象学:デリダのフッサール論 |
デリダがここで<発生と構造>と言うのは、西洋哲学の伝統的な二項対立のことをさす。発生は真理を人間の経験に基づかせるものであって、意識の与件からどのようにして真理の認識が得られるかということをテーマにしている。それに対して構造とは、真理を人間の経験を超えた超越的なものとして、あるいは先験的なものとして、いわばアプリオリに認識できるとする立場である。この二つの立場はカントによって一応総合されたことになっていた。カントはその総合を、いかにしてアプリオリな総合判断は可能であるかという形で問題提起した。カントはそれを、意識の与件をアプリオリな枠組みに当てはめることで人間の認識は成立するのだということで解決したと思っていた。しかしフッサールはそれを再び蒸しかえして、<発生と構造>の関係について考え直した。デリダがこの言葉で表現しているのはそういうことだ。 だがフッサールはこの二項対立を偽の二項対立と考えた。それはデリダによれば「現象学の境界の外」で建てられた対立であった。現象学の境界の内部では<発生と構造>は対立関係にあるわけではない。ではどのような関係なのか。そこがこの「<発生と構造>と現象学」と題する小論の眼目であるらしいのだが、必ずしもその試みが成功しているようには見えない。 フッサールは、人間の意識を指向性として捉え、その指向性が目指す対象すなわちノエマはむき出しの与件ではなく、人間によって構成されたものなのだということに気づいた。ノエマという点では、経験的な現象もプラトンのいうようなイデアも同じ平面にある。ということは、現象学の境界の中では経験的な与件が発生するプロセスも、非経験的なイデアが構成されるのも、同じノエシスの働きと言う点では同じものだ。ということは、現象学の境界の内部では、<発生と構造>とは対立関係にはないことになる。 こうフッサールの学説を捉えることでデリダは何を言いたかったのか。おそらくデリダが得意とする伝統的な二項対立の解体の一例としてフッサールの以上のような議論を持ちだしたのだと思われる。 「エクリチュールと差異」を書いていたころは、デリダはまだ二項対立の解体と言うテーマを主題的には論じていなかったようだ。だからこの小論もフッサールによる伝統的な二項対立としての<発生と構造>の対立の意義を徹底的に突き詰めるところまでは至っていない。 もうひとつこの小論には指摘しておくべきところがある。デリダは同じく「エクリチュールと差異」に収録した論文「暴力と形而上学」においても、レヴィナスを論じながらフッサールに言及していた。そこでのフッサール論の視点は、レヴィナスの他者論を意識して、他者についてのフッサールの捉え方が中心であった。それはそれとしていろいろ問題があると思うのだが、デリダは折角そこでフッサールの他者論を論じながら、この小論「<発生と構造>と現象学」では、他所の問題に触れていない。どういうつもりでそうしたのか。 フッサールの現象学は、特に晩年に展開された思想においては、日常世界というものは他者の存在とセットになって人間にとっての与件であると考えるところに最大の特徴がある。たしかに「イデーン」の次期ごろまでは、他者の問題は前面に出ていなかったが、フッサールの思想をトータルに評価しようと思えば、フッサールの他者についての思想を無視するわけにはいくまい。ところがデリダは、この小論においては、他者の問題を度外視している。彼がここで取り上げるフッサールはあくまでも先験的な自我を論じるフッサールである。しかもその自我は、拡大するとしても、その拡大の方向は時間軸にそってのものだ。空間軸にそっては拡大しない。だから他者は視野に入ってこない。永遠の超越論的自我が問題とされても、他者を含めた、いわば社会的な自我、空間的に広がった自我は問題にならない。 この小論でデリダが問題として取り上げているのはだから、フッサールの思想の一局面たる「超越論的私」に留まるということになる。 |
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