知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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情態性と了解:ハイデガー「存在と時間」を読む


「存在と時間」第一編第五章は「内・存在そのもの」と題して、世界・内・存在としての現存在の根本的な有様について分析している。世界・内・存在としての現存在は、自分が生きている世界についてすでに存在了解を持っており、この存在了解を手がかりにして世界についての認識を成立させるというふうにハイデガーは問題を提起するのであるが、それではこの世界了解とはどのような内容のものなのか。それがこの章において論じられるテーマである。ハイデガーは世界了解の内容を基本的には二つの面から見る。一つは、現存在の現存在としての自分自身についての捉え方であり、もうひとつは自分自身以外の存在者についての捉え方である。ハイデガーは、前者については情態性、後者については了解と呼ぶものを通じて解明する。

「情態性」とは、現存在としての人間が自分自身について持つ原始的な感情をあらわした言葉だ。この原始的な感情をハイデガーは「気分」と言っている。現存在は気分を通じて自分が存在しているということを実感する。デカルトのいうように、私が考えているという事実によってではない。気分を通じてわたしがわたしの存在を感じとることができるからこそ、わたしは考えることが出来るのである。「つまり現存在は、気分において、あらゆる認識や意欲の働きに先立ち、またそれらの開示の届く範囲をはるかに越えて、自分自身に開示されている」というわけである。気分は、現存在としてのわたしが、世界に投げ出されている情態を反映している。この世界に投げ出されている情態をハイデガーは「被投性」と名づける。ハイデガーは言う、「この『現存在があるという事実』を、わたしたちはこの{現存在という}存在するものが、その現(ダー)へと投げ込まれていること(ゲヴォルツェンハイト){被投性}と名づけます」

この「事実」は、あの「目の前にあること」を意味するものではない、とハイデガーは念を押す。「事実性は目の前のものの(動かし難い事実)の実際性ではなくて、実存のなかへと受け入れられたところの、さしあたり押しのけられていようとも、現存在のひとつの存在性格なのです」。こういうわけであるから現存在は、「知覚しながら自分を見出すのではなくて、気分づけられた{状態にある}自分を見出す」のである。この気分の否定態、つまり気分が害された状態にあっては、現存在はみずからに対して盲目となってしまう。気分によって存在を確固として感じられなくなるためだ。

次に「了解」について。この「了解」についてハイデガーは、正面切って定義していないが、現存在が世界について認識するその根拠のような働きとして位置づけているようである。そのことはたとえば次のような文章から伝わってくる。「可能なさまざまの認識の仕方のひとつという、たとえば『説明すること』とも異なる意味における『理解すること』は、この<説明すること>と同様に、およそ現の存在を共に構成している第一義的な了解の働きの、実存論的派生態として、解釈されねばならないのです」。また、「『直感』と『思考』とは、ふたつながら了解の働きからすでに遠く離れた派生物なのです」とも言っている。要するに、人間のあらゆる知性的な認識の作用の根本にあるもの、それが「了解」の作用だと考えているのであろう。

「了解」についての章でハイデガーが強調しているのは、了解そのものの規定ではなく、「投企」についてである。これは、現存在の存在可能性にかかわるキーワードとして持ち出されるのだが、いかにも唐突だという印象を受ける。ハイデガーとしては、現存在の了解の作用は、現存在による世界の知的把握の根拠となるものだが、世界の知的把握だけが、現存在の実存のすべてではない。現存在は無限の可能性を持っているのであって、世界の知的把握はその一部をなすに過ぎない。だから現存在は、了解をバネにして、自分の存在可能性を無限に追求できる。その追求の有様をハイデガーは、「投企」という言葉で表現し、それをとりあえず、現存在の世界把握の根拠を論じる「了解」の部分で持ち出したということではないか。しかしそれにしては、やはり唐突の印象は否めないし、場違いだという感もうける。

その唐突さは、「投企」という概念が、本来ハイデガー流の時間概念を踏まえていることから来る。「投企」とは、現存在の存在(実存)の有様を言い表している概念だが、現存在の実存の有様は、本来時間性を前提にしている。後に明らかになるように、現存在とは時間によって根拠付けられた存在なのだ。その時間概念がまだ明らかにされていないところで、いきなり「投企」の概念を持ち出すものだから、読者としては唐突の念を覚えるわけである。

ともあれハイデガーは、「了解」の作用を現存在の世界把握の根拠として位置づけた上で、「了解」の働きを分節化して説明してゆく。ハイデガーがそこで持ち出してくるのは、「解釈」とか、「陳述」とか、「語り」といった諸概念だ。

「解釈」をハイデガーは、「了解されたものの認知ではなくて、了解の働きのうちに投企された諸可能性の完成」だなどと、よくわからないことをいきなり言い出すので、読者の方は面食らってしまうが、要するに世界のうちに見出したものを、なになにをなになに「として」として解釈する作用だということになる。この「として」が、解釈の要諦である。なになに「として」現われてくるものをハイデガーは「意味」と名づける。「意味は、現存在のひとつの実存カテゴリーであって、存在するものに付着していたり、その『背後に』ひそんでいたり、または『中間領域』として、どこかに漂っていたりするような、ひとつの性質ではないのです。世界・内・存在が、その開示性のなかで見出される存在するものによって『充たされる』かぎり、現存在は意味を持つのです。それゆえ、現存在だけが意味を持ったり、持たなかったり、でありうるのです」

「陳述」は、とりあえずは「解釈」の派生様態として、解釈を言葉によって言い表す作用であり、そのかぎりでは、現存在の個人的な営みと思われないでもないが、言葉というもの自体が、共同存在を前提として成り立つものであるかぎり、共同存在としての共同体あるいは社会を前提としているといえる。それゆえ、「陳述とは伝達的規定的な提示である」と言えるわけである。

「語り」になると、そこにははじめから「語りかけられる」ものの存在が前提となっているわけだから、そもそも共同存在を前提とした概念ということになる。だが、語りと共同存在とは一方的な関係にあるわけではないとハイデガーは言う。共同体があって語りが成立する、というのは正確な言い方ではない。現存在はそもそも共同現存在なのだから、ということは現存在と共同現存在は根源を等しくするわけだから、現存在の行う「語り」の作用も、共同現存在と根源を等しくするというべきなのである。現存在にそれ固有の存在了解があるように、共同現存在にも共同存在了解(ハイデガーは共同情態性及び共同了解と言っている)がある。語りはこの共同存在了解と根源を等しくしているのだ。ハイデガーは言う、「わたしたちは最初からすでに他人とともに、それについて語られているところの存在するもののもとにあるのです」。

現存在の本来的なあり方からの転落として「ひと」があるように、「語り」にも転落した様態がある。ハイデガーがその例としてあげるのは、おしゃべり、好奇心、あいまいさ、とった諸概念だ。「ひと」について一方的に否定的ではなかったように、これらの否定態についてもハイデガーは一方的に排斥するわけではない。むしろこれらを、現存在の日常的なあり方として、それなりに積極的な意義を認めている。それは非本来性の例ではあるが、「非本来性とは、(もはや・世界・内・存在・しない)といったことを意味しないどころか、むしろそれは『世界』と、<ひと>の形での他人の共同現存在とにとって、完全に奪われているひとつの優れた世界・内・存在をまさに構成するのです・・・現存在が、了解的=情態的な世界・内・存在に関るからこそ、現存在は転落しうるのです」

現存在としての人間の本来的なあり方を論じながら、それの転落態としての非本来性を持ち出してくるのは、ハイデガーの常套的なやり方である。





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