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ハルツ紀行:ハイネを読む


「ハルツ紀行」は、ゲッティンゲン大学在学中にブロッケン山で知られる名所ハルツ山地に旅をした折の記録である。その時ハイネは27歳であって、ゲッティンゲン大学の二年生であった。そんなにも遅くまで大学にいたのは、ハイネが変則的な学校教育を受けたせいで、その理由の一つとして、かれがユダヤ人であったということがあげられるようだ。1820年代のドイツは、反動的でかつ不寛容な空気が蔓延していて、ユダヤ人差別が激化しており、ユダヤ人が大学に入るメリットはあまりなかった。だから、ユダヤ人たちは、息子に大学教育を受けさせる動機が弱かったし、当の息子たちも大学に入りたいという強烈な願望を持たなかったようである。

ユダヤ人には、軍隊の将校や大学の教授になる道が閉ざされていた。だから、ユダヤ人がドイツで人並みに出世するためには、最低限の条件として、キリスト教徒に改宗する必要があったし、また周囲に向かっては、自分がキリスト教徒であることを、ことさらに強調して見せなければならなかった。この紀行文を書いたとき、ハイネはまだ正式にキリスト教徒に改宗していたわけではないが、自分がキリスト教徒であることを強調している。たとえば、「新教徒であり、ことにルッテル教徒であるぼくは、敵のカトリック教徒が新教教会の神に見捨てられた貧弱な外観を嘲笑するときには、いつも深く悲しんだのである」(舟木重信訳、以下同じ)と言っている。ハイネはただにキリスト教徒であるばかりか、ドイツでは多数派であるルター派であることを強調している。

ハイネは、ルター派のキリスト教徒であることを強調する以上に、ドイツ人であることを強調した。ドイツではまず、ドイツ人であることが重要だからだろう。だから、旅の道づれからドイツがバカにされたときには、強烈な反撃をしてみせた。たとえば、一見してスイス人とわかる男が、「君たちドイツ人は真の意味の自由を知らない」といってドイツ人を嘲笑した際には、かれは肩をそびやかして反論した。「ほんとうの傭兵と菓子屋とはどこにいってもスイス人なのであって、特にそう呼ばれているのだし、一般に今日のスイスの自由の闘士なるものは、政治的な大胆なことを民衆に向かってうんとしゃべりたてるが、ぼくにはいつも臆病者と思われるのであって、そのようなやつらは人の出さかる歳の市でピストルをぶっ放して、その豪胆さによって子供や百姓をおどろかしはするが、それでもやっぱり臆病者にすぎない」

だからといって、ハイネが心底からドイツを愛するドイツ人であったとは、どうも言えないようである。ハイネがハルツに旅立とうと思った動機は、どうもゲッティンゲンの空気にうんざりして、それから解放されることを期待してのことだったと思われるのだ。そのゲッティンゲンの住人をハイネは、「学生と教授と俗物と家畜に分類される」といっているが、ドイツのどの町も、学生と教授を除いては同じような連中、つまり俗物と家畜に分類されるような連中から成り立っているのである。そんな連中から解放されて、ハルツの山の中で自由な空気に触れるのがこの旅の目的だったようだ。ハイネはその気持ちを、冒頭に置いた詩の中で次のように表現している。
  わたしは山に登っていこう
  山には小屋がたっていて
  胸は自由にうち開かれて
  自由な風が吹いている
  ・・・
  わたしは山に登っていって
  笑ってみんなを上からみよう
つまり、自由な山の上から、下界の俗物たちを見下ろしてやろうというわけである。

ゲッティンゲンを単身出発したハイネは、ハルツ目指して歩き続ける。ハルツ山地はゲッティンゲンの北東にあたり、ほとんど隣接しているといってよい。北上して、ネルテンを経てノルトハイムに至り、そこから東へ曲がってオステローデに至る。オステローデはハルツの登山口にあたる町だ。そこから山中を歩いてクラウスタールに至り、更に山中を縦走してゴスラーに至る。この町はハルツ山地の北麓にあたる。そこからブロッケン山をめざす。ブロッケン山はハルツの主峰であるのみならず、ドイツでも有数の名山である。そのブロッケンの頂上から下界を眺め渡した後、イルゼンブルグの町にたどりついたところで紀行文は終わる。実はこの後、下部ハルツと呼ばれているハルツ山地東部を引き続き歩き、南麓へ出た後、ワイマールに赴いてゲーテを訪ねたことになっている。しかし、ゲーテとの出会いはハイネにとって愉快なものではなかったらしく、紀行文の本文にも、あとがきの部分でも、一切触れていない。楽しい出会いだったならば、ハイネのことだから、感動を込めて紹介したに違い。そうでないということは、よほどゲーテにひどくあしらわれたのだろうと推測される。当時ゲーテはドイツ文学の巨匠として知らぬものはいなかった有名人なのに対して、ハイネはまだかけだしの若造詩人にすぎなかった。

紀行文のハイライトは、ブロッケン山に関する描写である。この山は、ゲーテのファウストにも出てくるし、なんといってもドイツ人にとっては、神秘的な魅力をたたえた山なのだ。そのブロッケンをハイネは、「この(山の)特質はその欠点においても長所においても実にドイツ的である。ブロッケン山は一人のドイツ人なのだ」と言っている。そういうことで何を言わんとしているか、この語句の前後を読んだだけではわからない。ハイネはこの旅の間さまざまな人々と出会うのだが、それらの人々に対する批評から、ハイネがドイツ的という言葉で何を意味しているかが何となくわかるようになっている。それを簡単にいうと、ハイネはドイツ人を、理性にこだわる民族だと見ているように思える。理性的というと聞こえはいいが、要するに理屈っぽいということだ。ドイツ人は何にでも理屈をつけたがる、その理屈とは、物事を結果からさかのぼって解釈することであり、また、目的論的に解釈することである。

あるドイツ人を引き合いに出しながら、ハイネはドイツ人の目的論的思考傾向を次のように評している。「彼はまた自然のうちにある合目的性と効用性についてぼくの注意をうながし、木々が緑色なのは、緑色が目によいからであると言った。ぼくは彼の説に賛成し、神が牛をつくったのは、肉のスープが人間を強くするからであり、ろばを作ったのは、ろばが人間との比較に役立つことができるためであり、人間そのものをつくったのは、人間が肉のスープをたべてろばにならないためであると付け加えた」。こういったからと言って、ハイネがドイツ人を馬鹿にしているとはいえない。なにしろハイネは、どんな機会も逃さず、自分がドイツ人であることに喜びを感じていることを強調しているのである。


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