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丸山真男の幕末政治思想論


丸山真男は明治維新を、日本型絶対主義政権の樹立と捉えているようである。そして幕末における政治思想のうち、絶対主義につながるものを、時代をリードした思想として位置付ける。それは当時の日本においては尊王攘夷思想とりわけ尊王主義という形をとるわけだが、その尊王主義が天皇を絶対君主とした絶対主義政権を思想的に基礎づけるものとなったというのが、丸山の大方の見取り図である。

丸山はだから、尊王思想を中心として、幕末の政治思想の発展を眺める。幕末の尊王思想として丸山が重視するのは水戸学と吉田松陰である。それ以前に、絶対主義の先駆者的な位置づけとして、本多利明と佐藤信淵を重視する。本多利明はもともとは数学者であったが、時代への深刻な危機意識を持っていた。その危機意識をもとにかれは、徂徠同様制度を立てて態勢の立て直しを目指したのであるが、それというのは、徂徠のように商業を抑圧して物々交換に帰るのではなく、かえって商業を国家によって運営し、それによる利益を国家が収得すべきというものだった。そのようにして富を蓄え強大化した実力をもって、「日本の土地限りのやりくり経済」を拝して「海洋渉渡の明法」すなわち海外での植民地経営をめざした。こうした海外侵略の説は、後に吉田松陰によって唱えられる。

佐藤信淵も又、国内的窮迫と国際的脅威に直面して、それを解決するためには、制度の抜本的な立て直しが必要だと主張した。その制度を一言で言えば、絶対主義的な政権の樹立である。かれは絶対君主が誰なのか、天皇なのか将軍なのか、あまり具体的には言わなかったが、要するに絶対君主のもとに日本国が一体となり、外国の脅威に備えるべきだというような主張をした。彼の主張は「垂統法」というものにまとめられたが、それは全国的政治組織によって、生産・分配・流通の機能を悉く中央政府に集中させようというものだった。

こうしてみると、本多も佐藤も絶対主義的中央政権を樹立し、その中央権力が我が国難を解決すべきだという立場に立っている。そして、その絶対主義政権の性格としては、本多の場合には重商主義的な色彩が強く、佐藤の場合には全体主義的な性格が強いと言えるであろう。

ここで、水戸学と吉田松陰に移る。この二つの思想的な動きは、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼし、明治維新を思想的に準備したといってもよい。その思想の核心は、いうまでもなく尊王主義である。尊王主義が絶対主義政権つまり絶対王政の理論的な支柱となった。しかしその尊王主義には、水戸学と吉田松陰では大きな違いがある。

水戸学の尊王主義は、徳川光圀以来の水戸藩の伝統であった。水戸藩といえば徳川の有力親藩で、それが徳川家よりも天皇家を戴くことにあるいは違和感があるかもしれぬが、水戸学ではその違和感は乗り超えられていた。水戸学は、徳川の権威は天皇よりこれを賜り、大名の権威は徳川家よりこれを賜り、侍の権威は大名よりこれを賜り、農工商は士を養うために存在するといった具合に、日本の階級秩序を、天皇を頂点として階層化し、その中に徳川家の権威を位置付けるという具合に、尊王と徳川家への忠誠を両立させていたのである。だから、徳川家を無視して天皇が親政すべきだとの主張はしなかった。政治はあくまでも徳川家が、天皇の委任を受けて行うべきなのである。そういう立場は幕末においても、基本的には変わらなかった。だから水戸学の基本スタンスは、公武合体に傾いていたのである。それでもなお尊攘思想に影響を及ぼしえたのは、天皇の権威を強調したことによる。要するに水戸学は、丸山によれば、封建的な階統制に矛盾せず、それを基礎づけていたわけである。

吉田松陰を丸山は非常に高く評価している。なにしろ本物の、ということは天皇を実質的な権力の中心として据える尊王攘夷思想を、松陰一人に代表させている。そのうえで松陰は、徳川家や諸大名の権威を廃絶し、天皇の下での万民平等的な体制を夢想した。そのように国内で一致団結した力を以て海外に飛躍し、北は満州・朝鮮から南はフィリピンにいたるまで、日本の植民地にすべきだというのが松陰の抱いた夢であった。松陰のこうした侵略主義的な傾向について丸山はあまり言及することはしない。かれが強調するのは、国内政治についての松陰の考え方である。なかでも、完全な平等とはいえないまでも、四民平等に通じるような思想を松陰が持っていたことに注目している。

幕末の政治思想を考える際の参照軸として、丸山は、身分制度を打破して水平な社会をつくろうという垂直的な方向での平等化と、藩の殻を破って国内を天皇の下にまとめあげようとする水平的な方向での統合化をあげる。この参照軸に照らしてみれば、水戸学はどちらも満足させているとはいえない。それに対して吉田松陰は、身分制度の打破に向けての志向を感じさせること、また藩の垣根を破って統一国家を作ろうとする志向をも感じさせることから、二つとも満足させていることになる。そこに丸山は松陰の歴史的な意義を求めているのだろう。その意義を前にしては、多少の侵略主義的傾向は大目に見るべきだということになりそうである。

もっともその松陰を含めて、国民が身分に関係なく政治に参加すべきだとの発想は誰も持たなかったと、丸山も認めている。幕末の政治思想家たちは、おしなべて庶民の政治参加を嫌っていた。というより、庶民のエネルギーを恐れていたと言ってもよい。彼らにとって、政治の主体はあくまでも自分自身が属している武士階級であって、庶民は統治の対象にとどまり続ける。庶民を政治の主体として位置づけ、庶民の政治参加を云々するようになるのは、維新以降のことである。



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