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疎外された労働:マルクス「経済学・哲学草稿」


「経済学・哲学草稿」が思想界に与えたインパクトのうち最も重用なものは「疎外論」であろう。マルクスはヘーゲルの疎外論の一つの応用例として自分の疎外論を展開する。ただし単なる応用ではない。単なる応用では模倣になってしまう。ヘーゲルは自然や人間を含めての世界全体を絶対精神が自己疎外(外化)したものととらえたわけだが、マルクスには絶対精神などという観念はない。そのかわり類的存在という概念を持ち出す。類的存在というのは、対象のもつ本質的なあり方という意味である。マルクスの疎外論は、その類的存在としてのあり方からの疎外という形をとっているので、あるものがその本来のあり方から逸脱しているという意味になる。それが人間の場合には、人間が人間本来のあり方から疎外されているという主張になる。

人間に疎外をもたらすのは、資本主義社会における労働のあり方だとマルクスは言う。その労働のあり方が、人間の人間本来のあり方、すなわち類的存在としてのあり方から、人間を疎外させるというのである。その疎外にはいくつかの側面がある。まずマルクスが取り上げるのは、労働者の労働生産物からの疎外である。労働生産物は、労働が対象化されたものであり、したがって本来労働者に帰属すべき筋合いなのに、資本主義的生産関係のもとにおいては、他人によって占取されてしまう。それをマルクスは、労働者の労働生産物からの疎外と呼ぶのである。マルクスは言う、「労働の実現は労働の対象化である。国民経済的状態のなかでは、労働のこの実現が労働者の現実性剥奪として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、対象の獲得が疎外として、外化として現われる」(城塚登外訳岩波文庫版、以下同じ)

また言う、「労働者が彼の生産物のなかで外化するということは、ただたんに彼の労働が一つの対象に、ある外的な現実的存在になるというばかりでなく、また彼の労働が彼の外に、彼から独立して疎遠に現存し、しかも彼に相対する一つの自立的な力になるという意味を、そして彼が対象に付与した生命が、彼に対して敵対的にそして疎遠に対立するという意味を持っているのである」。つまり労働者の労働は、蓄積された労働としての資本を増殖させることで、自分に敵対する力を生みだし、それをますます強化するというわけである。労働者は、自己の労働を通じて資本家を富ませ、その一方で自分はますます貧しくならざるを得ない。なぜなら彼の労働は彼自身に帰属しておらず、資本家に帰属しているからである。そうなるのは、資本主義的生産関係においては、労働者の労働もまた商品に転化するからである。労働者は、自分の労働を商品として売った時から、その処分についての権限を資本家に売り渡してしまうのである。

以上は労働者の労働生産物からの疎外、つまり生産の結果をめぐる疎外についての議論であるが、マルクスは次いで、生産活動の内部における疎外について取り上げる。生産活動の内部における疎外とは、「労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働者の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないでかえって否定され、幸福と感ぜずにかえって不幸と感じ、自由な肉体的および精神的エネルギーが全く発展させられずに、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は頽廃化する、ということにある」。つまり生きるためだけの、ほとんど意味のない、しかも苦痛でしかない労働、それが生産活動の内部における疎外された労働のあり方だというのである。こうなるのも、やはり労働が自分自身ではなく、他人に属していることの結果である。「労働者の労働の活動は他人に属しており、それは労働者自身の喪失なのである」

ここでマルクスは、生産関係内部の労働のあり方から、人間にとっての類的存在の意義についてへと、議論を発展させていく。疎外された労働が、人間の人間としての類的存在のあり方からの疎外を生みだすという議論である。

マルクスは、「人間は一つの類的存在である」と言う。ここで類的存在とは、人間としての本質をさしている。人間本来のあり方を、マルクスは類的存在という言葉で表しているのである。こういうことでマルクスは、個々の人間には人間らしい生き方をする資格があると言っているわけである。ところが資本主義社会では、労働者は人間らしい生き方ができない。かえって非人間的な生き方を強いられている。それは人間の人間としての本来のあり方、つまり類的存在としてのあり方からの疎外だ、とマルクスは言うわけである。その類的存在としてのあり方をマルクスは、自然の一部としての人間のあり方と、人間に特有の活動とに分けているが、そのいずれからも労働者は疎外されているとするのである。「疎外された労働は人間から、(1)自然を疎外し、(2)自己自身を、人間に特有の活動的機能を、人間の生命活動を、疎外することによって、それは人間から類を疎外する」というのである。

以上の議論を踏まえてマルクスは、資本主義的生産関係は、「人間からの人間の疎外」を生みだすと結論付ける。ここで労働者と言わず人間と言っているのは、資本主義的生産関係が、労働者ばかりでなく、労働者を搾取する人間たちまでも、非人間的にさせざるをえないと見ているからだろう。労働者の人間からの疎外が資本家の人間からの疎外と分かちがたく結びついているとマルクスは見なしているわけだが、それは主人と奴隷の関係をめぐるヘーゲルの議論を思い起こさせる。主人と奴隷の関係が互いに相手を前提としているように、資本家と労働者の関係も互いに相手を前提にしているというわけである。

ともあれ疎外された労働が私有財産を生みだすとマルクスは主張する。それは疎外された人間関係が神々を生みだすのと同じようなメカニズムだとマルクスは言う。「神々が本来は人間の知性錯乱の原因ではなく、その結果であるのと同様に、私有財産は、それが疎外された労働の根拠、原因として現われるとしても、むしろ外化された労働の一帰結にほかならない」と言うのである。

以上の議論からマルクスは、人間全体の開放、つまり社会の開放は、疎外された労働を止揚することから始まると結論付けるのである。



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