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資本と労働の再生産:資本論を読む


資本論第一部第七編は「資本の蓄積過程」と題して、剰余価値の資本への転化を論じる。剰余価値の資本への転化は、資本主義的生産の拡大、つまり拡大再生産をもたらし、それによって資本主義経済の不断の拡大・発展をもたらす。資本主義経済は、拡大するように宿命づけられているというのがマルクスの基本的見解である。それは今日の主流派の経済学も共有している見解だ。経済はつねに右肩上がりに成長していくことを、経済学は暗黙の前提にしている。経済が成長しないで停滞状態にあるというのは、不健全であることを超えて、ありえないことだと認識されるのである。停滞は安定とは違う。安定とは適度な成長を意味するのだ。

資本主義的生産が拡大せずに、同じ規模を保っている状態を単純再生産という。以前と同じ状態が単純に再生産されるという意味である。マルクスは、そういう状態は現実にはありえないものとして、理念的なものとして考察するのであるが、それによって資本主義的生産の基本的な要素である資本と労働の再生産をわかりやすい形で示しているのである。

単純再生産をもたらすのは、剰余価値が生産的な消費にあてられず、非生産的な消費にすべて費やされることである。生産的な消費とは、生産のために役立てられるということであり、具体的には生産手段の購入や労働力の購入に使われるということである。それによって、以前よりも生産の規模が大きくなるわけである。それに対して非生産的な消費とは、消費のための消費、たんに享楽されるだけで、あとに何も残さない消費のことである。そういう消費に、剰余価値がすべて費やされれば、経済は拡大せずに、単純再生産が行われるだけになる。

単純再生産においても、資本主義的な生産関係は保持される。資本主義的な生産関係とは、資本が労働と結びついて、剰余価値を生みだすということである。単純再生産にあっては、剰余価値はすべて(資本家によって)食いつぶされるのであるが、それでも、投下資本の(同規模での)再投下は行われる。投下資本は、不変資本と(労働力という)可変資本からなる。したがって単純再生産においても、労働力の再生産は行われるわけである。労働力の再生産なしでは、資本主義的生産関係そのものが成り立たないから、これは最も基本的なことであるとマルクスは言うのだ。

そう言うことでマルクスが主張しているのは、労働者の人間としての存続が、資本主義的生産関係においては、単に人間としての存続にとどまらず、資本主義的生産を維持するための基本的な条件になっているということである。それゆえ、労働者の個人的な消費は、単にかれの生存を維持するためにとどまらず、資本主義的生産を維持するための条件にもなっているわけである。

マルクスは言う、「労働者階級の個人的消費は、資本によって労働力と引き換えに手放された生活手段の、資本によって新たに搾取されうる労働力への再転化である。それは、資本家にとって最も不可欠な生産手段である労働者ものものの生産であり再生産である・・・労働者は自分の個人的消費を自分自身のために行うのであって資本家を喜ばせるために行うのではないということは、少しも事柄を変えるものではない。たとえば、役畜の食うものは役畜自身が味わうのだからといって、役畜の行う消費が生産過程の一つの必然的な契機だということに変わりはないのである。労働者階級の不断の維持と再生産も、やはり資本の再生産のための恒常的な条件である」

つまり資本主義的生産関係においては、労働者はそれの不可欠の構成要素として、がっちりと組み込まれているというのである。そういうわけで、「社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具と同じに資本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも、ある限界の中では、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない」

こういうわけで、資本主義的生産関係は、たえず資本を再生産すると同時に、労働力も再生産している。それは、「労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きていくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする・・・こうして、資本主義的生産過程は、関連の中で見るならば、すなわち再生産過程としては、ただ商品だけではなく、ただ剰余価値だけではなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を、生産し再生産するのである」

つまり、資本主義的生産関係とは、単純化して言えば、世界が資本家階級と労働者階級からなり、資本家が労働者を搾取するように条件づけられたシステムということになる。このシステムにおいては、労働者階級は、資本家階級を富ますための手段としてのみ意味を持たされる。それ以外の、人間としてのかれの属性は、音楽にとっての雑音のようなものでしかない。

こうしたマルクスの議論は、若い頃の「疎外された労働」という思想に肉付けしたものだと思われる。マルクスが資本主義的生産関係に敵対的なのは、それが人間性の本来のあり方から個人としての人間を疎外するからだと思うからだろう。その疎外は、労働者としての人間が、自分自身の人間性の開放のためではなく、資本を富ますための手段に貶められていることに由来する。人間はなにか外的なもののための手段であってはならない。人間はそれ自体が目的でなければならない、というのがマルクスの疎外論の基本的な考えなのである。



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