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資本の回転:資本論を読む


マルクスは、資本の循環という概念と並んで、資本の回転という概念を持ち出してくる。資本の循環というのは、資本がその目的たる剰余価値の実現のために通過する総過程をさし、単純化していえば、資本の流通過程と生産過程を合わせたものである。流通過程を通じて、労働力を含めた生産手段を調達し、それらを組み合わせて生産を行い、生産の結果得られた生産物を、再び流通過程に投げ入れて(剰余価値を含めた)商品の価値として実現するわけである。これに対して資本の回転とは、マルクスによればもっぱら生産過程にかかわる概念である。生産過程に投げ入れられた生産手段が一回転する期間、それを簡単にいえば、資本の回転期間ということになる。

生産過程に投げ込まれるものには、さまざまなものがある。建物や機械などの生産手段はかなり長い期間にわたって使用に耐える。一方、原料とか補助的生産要素、たとえば電力とか石炭とかいったものは、使用のたびごとに消えてしまう。このことから、耐久的な生産手段を固定資本と呼び、一時的な生産要素を流動資本という言い方ができる。しかし、固定資本と流動資本の区別は、単に耐久期間によって決まるものではない。耐久期間だけなら、たとえば農業耕作用の種子はかなり長い間使用され続けるが、それを固定資本とはいわない。種子を含めた流動資本は、一時の使用によってそのすべての価値を生産物の中に移す。それに対して固定資本のほうは、一時の使用について、その価値の一部を生産物に移すに過ぎず、その完全な使用の終了は、ずっと先になるのである。

資本の循環という概念は、資本の目的たる剰余価値の生産を説明するためのものであり、したがって資本主義経済の本質にかかわる概念である。これに対して資本の回転、つまり固定資本とか流動資本とかいった概念はかなりテクニカルなものであり、資本主義の本質というよりは、資本主義的経営にかかわるものだと言ってよい。一方が経済学プロパーの問題を扱うとすれば、他方は経営者の経営上の心得にかかわるものと言える。そんなテクニカルな問題をマルクスがわざわざ取り上げるのにはそれなりの背景がある。マルクスは盟友エンゲルスから、資本家としての経営上の心得をくわしく聞かされていたに違いなく、それによって得られた知見を、自分の資本主義研究に取り入れたいと考えたとしても不思議ではない。

しかし、それだけではないようだ。このテクニカルな問題をマルクスは、多くのページを割いて、きわめて詳細に論じている。その意図は、スミス以来のブルジョワ経済学への対抗心から来ているようだ。マルクスは、スミスに始まりリカードで高まるブルジョワ経済学を、それなりに評価し、とりわけリカードの労働価値説には高い評価を与えているが、基本的には、かれらが資本主義経済の肝要である剰余価値の源泉について誤った主張をしているとし、その証拠として、資本の回転にかかわるかれらの主張をあげるのである。

マルクスによれば、剰余価値の生産を説明するために必要な概念セットは、不変資本と可変資本である。不変資本というのは、その価値の一部ないし全部を生産物のなかに移転し、それ以上の新たな価値を一切生まないものである。価値が変らないことから不変資本というわけである。それに対して可変資本とは、自分の価値以上のものを生産物に加えるようなものを言う。具体的には労働力のことである。労働力の商品としての価値は、それの再生産に必要な経費である。ところが生きた人間の労働は、自分の再生産に必要なレベルを超えて働き続ける。この余剰の労働をマルクスは剰余労働と名づけ、その剰余労働が剰余価値の源泉なのだと主張した。だからマルクスによれば、不変資本と可変資本の区別こそ、経済学の本質にかかわる概念セットだということになる。

ところがスミスは、資本に関わる区別を、不変資本と可変資本の間に設けるのではなく、不変資本(あるいは固定資本)と流動資本との間に設ける。不変資本は、マルクスによれば資本の循環にかかわる概念であり、一方流動資本は、生産過程にかかわる概念であって、両者はそもそも別々のカテゴリーに属ずるものだ。ところがスミスは、それらを同一平面でごちゃまぜに混同することによって、経済学の本筋から離れてしまう。スミスによれば、資本は不変資本と流動資本に分類され、そのどちからに区分けされるのだが、その流動資本には、原料や補助材料を含めた本来の流動資本のほか、労働力も含められてしまう。その結果、通常の流動資本と労働力の本質的な差異が曖昧となり。労働力のみならず流動資本全体から利潤(つまり剰余価値)が生まれるというような誤った主張をするようになる。そうマルクスは言って、スミスを厳しく批判するのである。

スミスへの批判はリカードにも向けられる。リカードは折角労働価値説に立って、労働こそが剰余価値の源泉だと気づくに至りながら、それを徹底できなかった。その理由は、リカードも又スミスによる資本の区分にとらわれていたからだとマルクスは言う。労働力をその他の生産要素と一緒くたにして流動資本と捉える立場からは、剰余価値の源泉についての正しい理解は得られない。そうマルクスは思ったからこそ、資本の回転にかかわる一見してテクニカルで些末な議論に注力したのだと思われるのである。

そういうわけであるから、資本の回転にかかわるマルクスの議論は、その正確な意図を踏まえて読まないと、寄り道に踏みこんだような印象を抱かされるであろう。

以上、マルクスが指摘しているように、スミスやリカードなどのいわゆるブルジョワ経済学は、流動資本、マルクスの言葉で言えば流通資本こそが、利潤の源泉だと説明したわけだが、その説明は、今日の主流派経済学にも受け継がれている。今日の主流派経済学は、限界概念とか数学的な手法とかを駆使して、一見精緻な議論を展開しているように見えるが、観単にいえば、需給のバランスから価格が決まると言っているわけで、需給のバランスとは、商品の流通の場の現象をさしていう言葉なのである。



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