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需要供給と商品価格:資本論を読む


利潤が平均利潤に転化するのは、個別資本にとっての費用価格が社会的な平均としての生産価格に転化するからである。それらをもたらすのは競争である。競争は需要と供給の外観のもとで行われる。需要の多いところには資本が集中し、その逆の場合には逆の事態が起こる。その結果、商品価格は需要と供給が一致するところに落ち着く。こういう外観があるために、個別資本家にとっても又資本の代理人である経済学者にとっても、需要と供給のバランスこそが商品価格決定の要因だというふうに映る。しかし、それは現象の外観に目を奪われた皮相な見方だとマルクスは批判する。

経済学者たちは、需要と供給とが一致するところで商品価格が決まることを根拠に、商品価格決定の唯一の要因は需要と供給との関係だと主張する。これに対してマルクスは、商品価格を決定する究極の要因は価値法則だとする。価値法則とは、商品の生産に実際に費やされた価値通りに商品の価値が決まるとするものである。したがって、理想的なケースにおいては、ということは最も標準的なケースにおいては、商品価格は価値法則通り、それの実際の費用価値を忠実に反映したものになる。そうならないのは、商品生産者間の(資本の有機的構成という形をとる)技術的要因の相違とか、競争が働くからである。そういう場合には、個別資本の費用価格は、平均価格からの偏差ということになる。マルクスによれば、「需要供給関係は、一方ではただ市場価値からの市場価格の偏差を説明するだけであり、また他方ではただこの偏差の解消への、傾向を説明するだけである」

つまりこういうことだ。商品の平均価格は価値法則にもとづいて決まる。市場における大部分の個別資本はだいたいこの平均価格と自分の費用価格とが一致すると感じるはずだ。一致しないのは、自分自身の費用価格が市場の平均的な生産価格と一致していないからだ。市場の平均価格より高い生産費の場合、その価格通りに売ることはできない。かれの供給に対して需要が対応しないからだ。そういう場合には、その個別資本にとっては、市場で成立する価格は、外在的で強制されたものと映り、それは結局需要と供給の関係で決まるものだと映る。それはある程度自然なことである。なぜなら、個別資本にとっては、市場全体で生じている価値法則の貫徹は見えておらず、需要供給のバランスだけを自分の身近で見ているからである。

このように、市場価格は最終的には価値法則にもとづいて決定されるが、場合によっては、価値法則からずれることがある。価値法則がきちんと働くのは、社会の総需要と総生産とが一致する場合である。この社会の総需要をマルクスは社会的欲望と呼んでいる。欲望が需要を生むという考えからだろう。一方総供給のほうは総生産という言葉であらわされる。特定の社会を見れば、社会的欲望は、経済的には与えられた条件になっており、また総生産は、基本的には社会的欲望に対応している。だから、だいたいの場合には、社会全体での需要と供給とは一致するように出来ており、部分的な偏差が生じるにすぎないのだが、場合によっては、社会的欲望と総生産とが釣り合わないこともおきる。そのような場合には、需要のほうが生産をこえて増大すれば、価格は高めに決まる。そのようなケースの場合には、資本の有機的構成が低いものでも、その費用価値に近い価格で売ることができるようになるからだ。

マルクスの社会的欲望のことを、ケインズは有効需要と呼んだ。ただケインズの場合には、有効需要はその総額が着目されるにすぎない。有効需要の総額が総供給に及ばないので、その差を埋めて需要と供給とを一致させようという考えである。それに対してマルクスの社会的欲望という概念は、もっと弾力的である。それは、「いろいろな階級の相互間の関係によって、したがってまた特に第一には労賃に対する剰余価値の割合によって、第二には剰余価値が分かれていく色々な部分(利潤、利子、地代、租税など)の割合によって、制約されている。それだから、ここでもまた、需要供給関係が作用するための基礎が述べられてからでなければ、需要供給関係からは絶対になにも説明できないということがわかるのである」

そんなわけであるから、たとえば労賃の割合が高まれば、それに応じて労働者の消費も増え、それにしたがって社会的欲望のある部面が増大したり、あるいは全体の規模が増大したりすることになる。マルクスは、基本的には生産中心の考えに立っているが、社会全体の規模を拡大させるものとしては、消費の担い手にも大きな注目を払っているわけである。

ともあれマルクスは、商品価格の決定を最終的に左右するのは価値法則だと考え、需要供給関係は、それからの偏差を説明するにすぎないとする。「生産される商品量が不変な需要のもとでの再生産の普通の基準に適合しているならば、この商品はその市場価値(費用価値=生産価値)で売られる。諸商品の価値どおりの交換または販売は、合理的なものであり、諸商品の均衡の自然的法則である。この法則から出発して偏差を説明するべきであって、逆に偏差から法則そのものを説明してはならないのである」

マルクスはさらに言う。「なぜ市場価値がこの貨幣額で表されて他のどの貨幣額でも表されないのかということにつては、需給関係はまったくなにも教えてくれないのである。資本主義的生産の現実の内的法則は、明らかに、需要と供給との相互関係から説明することはできない(この二つの社会的な推進力の、もっと深い、ここで説明するのは適当ではない分析はまったく別として)。なぜならば、これらの法則が純粋に現実化されて現れるのは、ただ、需要と供給とが作用しなくなるとき、すなわち一致するときだけだからである。需要と供給とはけっして一致しない。もし一致するとすれば、それは偶然であり、したがって科学的にはゼロとすべきであり、起きないとみなすべきである。ところが、経済学では需要と供給とが一致すると考える。なぜか?」

マルクスはそう問いかけることで、需要供給関係が、価値法則の外観をあらわしているだけで、それ自体では何も説明しないにかかわらず、あたかも商品価格決定の唯一の原因だとする経済学者たちの、本質から外れた議論を嘲笑するのである。



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