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メルロ=ポンティ「知覚の現象学」を読む


メルロ=ポンティの著作「知覚の現象学」は、「行動の構造」と一対のものとして学位論文を構成していることからわかるとおり、同じ課題を追求している。それは、人間の認識とか実践を、極端な実在論や極端な観念論のいづれかではなく、その両者を接合させることの上に基礎づけるというものだった。極端な実在論は自然とか意識外のものを基準にして立論し、意識は外的自然の反映だというふうに極言したりもする一方、極端な観念論は、意識こそが世界を構成するのであって、自然を含めた外的世界は意識の産物だとする。その二つの極端を配排して、「意識と自然、内的なものと外的なものとの関係を了解すること」(竹内芳郎、小木貞孝訳)が、メルロ=ポンティが「行動の構造」及び「知覚の現象学」において追求した課題だった。

その課題をメルロ=ポンティは、現象学の方法を用いて遂行する。メルロ=ポンティがいう現象学は、フッサールの現象学をかれなりに咀嚼したものである。それを単純化して言うと、現象学をただに本質についての学としてのみならず、存在についての学としてとらえるというものである。サルトルもまた現象学を採用したといっているが、サルトルの場合は、現象は意識の現れとされ、したがって意識が世界を構成するという立場に傾いている。そういう態度をメルロ=ポンティはとらない。メルロ=ポンティは、この著作のなかでは直接サルトルに言及してはいないのだが、存在を意識によって基礎づける態度を厳しく批判しているので、サルトルに対しては否定的だったと考えられる。

現象学とは、とりあえずは現象についての学である。それで、現象とはなにか、が問題となるが、メルロ=ポンティにとって現象とは、意識の現れでもなく、ましてや意識の対象でもなく、意識がそのうえに成り立つような基盤である。意識があってそこに現象が生成するのではなく、現象がまずあってそこから意識とその対象とが分節してくる。つまり現象こそが、意識の基礎にあると考えるのである。

こういう現象の捉え方は、現象一元論の一種と称することができよう。現象一元論は、意識の直接与件としての現象をあらゆるものの根底と考え、それが分節することで、意識の対象とか意識そのもの(自己意識)が生成してくると考える。その場合、現象はあくまでも心のなかでの出来事とされ、したがって心を離れては考えられないというのが普通の考えである。人間は心の担い手と考えられるのが通常であるから、心を舞台として生成する現象は観念的な性格を帯びざるを得ず、また現象をもとに知性が構成する概念は抽象論的なものにならざるをえない。メルロ=ポンティはそうした考えかたに異を唱える。かれにとって現象は、単に心的な出来事ではなく、それ自体が存在性格をもっているのであり、その存在性格は世界の存在から来ている。心が世界を構成するのではなく、世界が存在していて、そこに心が根付くのである。これをいいかえれば、我思うゆえに世界が存在するのではなく、世界が存在するからこそ我思う、ということになろう。

現象とはメルロ=ポンティにとって、世界と人間との出会いから生まれる。人間が世界と出会う、というか世界のうちに身を置く(それをかれは投錨と呼ぶ)ことこそ、現象が生成してくる源泉となるのである。その場合に、世界と人間とは、どちらがさきで、どちらが本質的なというようなことは問題にならない。あえていえば、まず世界があって、そこに主体としての私(人間)が根をおろし、その接点から現象が生じるといえなくもない。じだがメルロ=ポンティは、そうは考えない。主観が存在しなければ、世界も存在しようがない、というような意味のことをかれは繰り返しいっている。かれにとって、主観は世界を基礎づけるようなものではなく、かえって世界の存在を前提とするものではあるが、だからといって、世界が主観なくして存在するような自立的なものとは見ていない。あくまでも、世界は主観あっての世界なのであり、主観の存在しないところには、世界もまた存在する根拠がないのである。

主観にとって現象は、とりあえず知覚というかたちをとる。その知覚の現れについて俯瞰的かつ詳細に述べることが「知覚の現象学」なのである。だから知覚の現象学は、主観としての人間と、客観としての世界との相互交流について語ることを目的とする。その場合、現象学は現象について記述することに専念すべきだとメルロ=ポンティはいう。「記述することが問題であって、説明したり分析したりすることは問題ではない」。つまり現象学は、現象をありのままに記述すべきなのであり、それは、ありのままの現象こそが、あらゆる学問のそこから発生してくる源泉だからである。

そこで、知覚についてどう捉えるかが問題となる。カントに代表される主知主義は、知覚を知性の働きとする。意識にとってまず与えられるのは感覚内容であって、それを材料にして知性が概念的な認識に構成する、という具合に考えられている。感覚内容そのものは受動的なものであり、それに対して知性の側が働きかけるという構図になっている。感覚と知覚はだから、一応別の次元のものと捉えられている。感覚そのものは、外部からの働きをうけて生じるという点で、あくまで受動的である。その外部からの働くをうながすものを、カントは物自体となづけ、われわれに知られているのは感覚の内容であって、その原因となる物自体は不可知であるとした。不可知な物自体が我々の意識に対して感覚を生ぜしめ、その感覚を知性が加工することで概念的な認識が生じるという二段構えになっているわけである。

それに対してメルロ=ポンティは、カントのように感覚と知覚を別の次元のものとは考えていない。感覚そのものにすでに、主観の側からの一定の働きかけが含まれている。その働きかけのことをメルロ=ポンティは志向性と呼ぶ。志向性とは、意識が対象に向かって働きかけるその作用のことである。それを言い換えると、われわれが一定の対象を見るとき、その対象を図として、背景にある地から浮かび上がらせることである。このゲシュタルトの作用がすでに感覚のうちに含まれているとメルロ=ポンティは考えるのである。だから、感覚と知覚とを、カントのように区別する理由はない。感覚が志向作用を含むかぎり、そこには主観(主体)の働きが前提されているのであり、その働きは、受動的ではなく志向的すなわち積極的な契機を含むという意味で、すでに知性の働きを前提していると考えるのである。

感覚が受動的ではなく志向的すなわち積極的であるのは、主体が意識に限定されるのではなく、身体を含んでいるからである。カントの主知主義は、人間を抽象的な意識に還元した。それは身体を捨象したものであるから、純粋に観念的であることができた。しかし人間という主体は、身体にまとわれた存在なのである。身体は抽象的であることはできない。それは生きている具体的な肉体として世界とかかわりあう。知覚とは身体としての主体が世界と接するところに生じるものなのである。人間から身体を捨象して、単なる意識に還元しては、世界の意味はとらえられない。意識から出発しては他者の存在もとらえられない。じっさいカントの先験的観念論は他者の問題を勘定に入れていない。他者の存在を捉えられないでは、世界の意味を真に理解することはできない。

こんなわけでメルロ=ポンティは、主体としての人間を世界とのかかわりにおいて捉え、その世界を主体と他者とが共存するものとしたうえで、世界がわれわれにとっての地平を構成すると考えるわけである。




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