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メルロ=ポンティの思想


フランス現代思想を手際よく概観した書物として定評のある「知の最前線(ヴァンサン・デコンブ著 高橋允昭訳)」が、サルトルと並んでメルロ=ポンティを、フランス現代思想の最初の代表者として紹介している。それ以前に、フランスの思想界にはベルグソンという偉大な思想家がいたわけでが、デコンブはベルグソンを古い世代の思想家と見ており、フランス現代思想はあくまで、1930年代以降に現れたサルトルとメルロ=ポンティを先導者とすべきだと考えている。

この最初の世代をデコンブは、1930年世代と名付け、その特徴を、3Hに関連付けて説明している。3Hとは、ヘーゲル、フッサール、ハイデガーのことである。この三者が体現している弁証法、現象学、実存の哲学が、サルトルやメルロ=ポンティらフランス現代思想の最初の代表者たちに深い影響を及ぼしたというのである。たしかに、サルトルはヘーゲルの弁証法とハイデガーの実存の哲学に大きな影響を受けているし、メルロ=ポンティはフッサールに大きな影響を受けている。だが、二人とも3Hすべてをトータルに受け入れたわけではなく、その受け入れ方にはそれぞれの特徴があるので、この二人を一緒くたにするわけにはいかない。といって無関係とみなすわけにもいかない。

二人は、そもそも違う出発点からキャリアを始めた。サルトルはハイデガーの「存在と時間」に衝撃を受けて、それをもとに彼自身の実存の哲学を確立した。「存在と無」は「存在と時間」への一つの注釈とみてよいほどである。一方メルロ=ポンティには、ハイデガーの影響はほとんど指摘できない。かれはもともと科学としての心理学に依拠しながら自身の哲学を形成したのであって、科学的な言説に哲学的な衣装を着せるために、フッサールの現象学を利用したに過ぎない。

にもかかわらず、二人は第二次大戦後の一時期、非常に強い連帯感によって結びついた。友人としてだけでなく、思想上の同士としてでもある。かれらの思想を結び合わせたのは、ヘーゲルの弁証法であった。かれらはヘーゲルの弁証法を、歴史を前進させる原動力としてうけとった。そのようなものとして、弁諸法は発展の原理なのである。新カント派が全盛をふるっていた1930年以前には、弁証法はうさんくさい考えだと決めつけられていた。弁証法は、歴史は完全な人間性の実現に向かって進んでいくという思想を内在させていたのだったが、新カント派によれば、そのような考えはナンセンスにすぎなかったのだ。

ところが、第二次大戦を経て、フランス国内にコミュニズムの権威がたかまると、マルクスの弁証法を通じて、ヘーゲルの弁証法が見直されるようになり、弁証法ということばが新しい時代の合言葉として定着した。第二次大戦自体は人間性の否定であり、歴史の破綻といってよかったが、その廃墟の中から、歴史の前進に信頼感をよせる哲学が台頭したのであった。その信頼感がかれら二人を人間的にも思想的にも強く結びつけたのであった。

しかし彼らの連帯は長くは続かなかった。かれらが共同で雑誌「レタン・モデルヌ」を発行したのは1945年10月のことだったが、その数年後(1951年前後)には、二人はたもとをわかった。「レタン・モデルヌ」には、メルロ=ポンティは毎号論文を寄せ、弁証法について熱っぽく語ったものだったが、そのうち、弁証法について語らくなくなった。サルトルについて表立って批判することはしなかったが、思想的には、自分とサルトルの間には越えがたい障壁があることに気づかざるをえなかったのだ。だが正面からサルトルへ異を唱えるような下品なことは行わず、ひっそりと立ち去ったのであった。

メルロ=ポンティがサルトルと袂を分かたざるをえなかったのは、かれらのよって立つ基盤がかなり異なっていたためである。かれらはふたりとも実存主義運動に組み込まれて説明されるのが普通だが、じつはその思想的な相違はかなり大きいのである。二人とも現象学を自分の哲学の方法論として認めており、その限りで共通の部分もあるのだが、肝心なところで大きな差異がある。それを単純化して言うと、主体のとらえ方と歴史への向かい方に相違があるということである。サルトルは主体をあくまでも意識として捉えた。その点ではデカルト以来のフランス哲学の伝統を踏まえていたのである。それに対してメルロポンティは、主体を意識としてではなく、身体としても捉えた。かれによれば主体とは、受肉した意識なのであり、意識の担い手としての身体なのであった。サルトルには身体という視点がほとんど欠けているために、主体は意識の範囲に閉じ込められ、その意識によって世界が基礎づけられるとう構成をとるので、いきおい観念論しかももっともグロテスクな観念論である唯心論に陥らざるをえなかった。メルロ=ポンティは、身体という要素を持ち込むことによって、唯心論の罠からは距離を置くことができた。意識から出発すれば、他者も環境世界も都合よく説明することはできない。だが、身体から出発すれば、世界も他者も都合よく説明できる。わたしが意識をもっているからといって、他者も意識をもっているとは断言できないが、私も他者も身体として現れる限りでは、私の身体が意識を持っていれば、他者の身体もまた意識をもっていると言えるのだ。

歴史についていえば、サルトルは弁証法について語るようになって以来、つねに弁証法の立場から歴史の前進について楽観的に語るのをやめなかった。歴史は人類の完全な実現(それは自己実現でもありまた理想的な世界の実現でもある)に向かって絶えず前進していくというイメージをサルトルは最後まで死守した。それに対して公然と意を唱えたのは構造主義者のレヴィ=ストロースであったが、メルロ=ポンティもまた、構造という言葉を使って、人間の文化の超歴史性を云々し、歴史を相対的に見るようになった。もっともメルロ=ポンティは、レヴィ=ストロースとサルトルの論争が本格化する前に死んでしまい、それに首を突っ込むことはなかった。だがかれが、構造という静的な概念によって、サルトルの動的な歴史観に挑戦したことは確かである。

つまりメルロ=ポンティは、動的な原理ではなく静的な原理を尊び、人間を歴史の視点から語るのではなく、不動の原理に基づいて語る傾向が強かったということである。そうしたメルロ=ポンティの立脚点はレヴィ=ストロースと共通するところがあったのだが、レヴィ=ストロースのほうではメルロ=ポンティを思想上の同士とは考えず、逆にサルトルと同じ穴のムジナと考えていたようである。メルロ=ポンティが構造という概念を武器にしてサルトルを批判したのに対して、レヴィ=ストロースはその同じ構造の概念をメルロ=ポンティ批判に利用したとデコンブは言っている。もっとも、構造という言葉についての、両者の理解は異なっているようである。メルロ=ポンティのいう構造とは、ゲシュタルトのことであって、レヴィ=ストロースのいう構造とはほとんど似ているところのないものであった。

以上は、サルトルとレヴィ=ストロースとのかかわりのなかで、メルロ=ポンティの思想的立場を俯瞰したものである。メルロ=ポンティの思想の具体的な内容については、以下の各論を参照願いたい。


メルロ=ポンティ「行動の構造」を読む

メルロ=ポンティの弁証法:「行動の構造」を読む

メルロ=ポンティのベルグソン批判:行動の構造

メルロ=ポンティのフロイト批判:「行動の構造」を読む

メルロ=ポンティ「知覚の現象学」を読む

メルロ=ポンティの感覚論:「知覚の現象学」を読む

メルロ=ポンティの身体論:「知覚の現象学」を読む

性的存在としての身体:メルロ=ポンティ「知覚の現象学」

表現としての身体と言葉:メルロ=ポンティ「知覚の現象学」

メルロ=ポンティの共感覚論:「知覚の現象学」を読む

メルロ=ポンティの空間論:「知覚の現象学」を読む

メルロ=ポンティの他者論:「知覚の現象学」を読む

メルロ=ポンティのコギト:「知覚の現象学」を読む

メルロ=ポンティの時間論:「知覚の現象学」を読む

メルロ=ポンティの自由論

メルロ=ポンティ「意味と無意味」を読む

メルロ=ポンティのセザンヌ論:「意味と無意味」

メルロ=ポンティのサルトル論

メルロ=ポンティの映画論

メルロ=ポンティとマルクス主義

メルロ=ポンティ「シーニュ」を読む

間接的言語と沈黙の声:メルロ=ポンティ「シーニュ」

どこにもありどこにもない:メルロ=ポンティ「シーニュ」

メルロ=ポンティのレヴィ=ストロース論

メルロ=ポンティのフッサール論

生成するベルグソン像:メルロ=ポンティ「シーニュ」から

眼と精神:メルロ=ポンティの絵画論


廣松渉のメルロ=ポンティ論

鷲田清一「メルロ=ポンティ」を読む


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