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メルロ=ポンティのフロイト批判:「行動の構造」を読む


メルロ=ポンティは、意識に定位しながら立論する姿勢をサルトルと共有していたので、サルトル同様に無意識を認めなかった。だから、サルトルがフロイトを批判したように、かれもフロイトを批判した。批判の要点は二つ。一つは無意識の実在性を否定すること、もう一つは無意識を原因とした因果関係を否定することである。

メルロ=ポンティにとっては、人間の行動(認識も含めた)は、すべて意識を舞台としたものである。というより意識そのものが人間なのである。その意識が身体を伴っていることは、意識が意識であることを妨げない。だから意識しないことは、人間であることをやめることである。このように徹底的に意識にこだわるメルロ=ポンティは、フロイトのいうような無意識を認めない。

フロイトは、夢や神経症の症状を、無意識な衝動の現れと見たのだったが、メルロ=ポンティにとっては、無意識の衝動のように見えるものは、実は行動の構造化にともなう現象なのである。人間は、たえず行動を発達させながら生きている。行動の発達というのは、古い行動の構造の上に、新たな構造を構築することである。たとえば、子供のときの行動の構造と大人になったときの行動の構造との関係のようなものである。その発達関係は連続的なものではなく、斬新的で非連続的なものだという。ふつうの大人は、子供とはちがった構造にしたがって行動する。ところが、場合によっては、子供の時の構造に従ってしまうことがある。神経症とは、そうした場合に起こる環境への適応障害なのである。

その原因は、子供から大人へ成長する際に、行動の再組織化がうまく行かなかったことにある。ふつうの大人は、子供の時の行動の構造を乗り越えて、大人にふさわしい新たな構造を獲得するのであるが、それがうまく行かなかった場合、子供の時の行動の構造が大人になったあとでも反復される。神経症の症状は、大部分そうしたケースなのである。だから、それは無意識のコンプレックスが働いた結果と考えるべきではなく、行動の再組織化の失敗として考えるべきなのである。

夢については、これも無意識の現れではなく、過去の意識を生きているのだとメルロ=ポンティはいう。過去の意識というと、記憶というイメージが思い浮かぶが、メルロ=ポンティは、ベルグソンがいうような実体化された記憶という概念は認めない。ベルグソンの記憶は、人間の認識を底層で支えるものであるが、それだけに実体的な存在性格を帯びざるをえない。そういう実在性をメルロ=ポンティは徹底的に排除するのである。また、フロイトのいうコンプレックスとは、分離した意識ということになる。

このように、無意識のはたらきを認めないのであるから、無意識を原因とする因果関係も問題にならないはずである。ところがメルロ=ポンティはあえて、無意識とさまざまな神経症的症状との間の因果関係の存在を否定することにこだわる。そのあたりの呼吸のようなものを、メルロ=ポンティは次のように表現している。「われわれが考えてみたいのは、フロイトが性的下部構造や社会的規制作用に割当てた役割は別にして、彼の言う葛藤そのもの、彼の記述した心理的機構、コンプレックスの形成、抑圧、退行、抵抗、転移、代償、昇華などが、本当に因果関係の体系~それによって彼はそれらの事実を解釈し、またそのおかげで精神分析の発見が人間存在の形而上学説に変じたのであるが~を必要とするかどうか、ということである。ところが、容易にわかるように、ここでは因果的思考は不可欠なものではなく、われわれはもっと別な表現をすることもできるのである」(滝浦、木田訳)

メルロ=ポンティがこう言うわけは、おそらく、因果関係を実在的なものとみなす伝統的な傾向に対して、強い拒否感を抱いていたためだと思われる。




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