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メルロ=ポンティのフッサール論


メルロ=ポンティは若いころより現象学を標榜していたから、フッサールについては折につけて言及していた。「シーニュ」所収の「哲学者とその影」は、かれのフッサール論の集大成というべきものである。かれがこれを書いたのは死の前々年のことだから、ますますそう言える。とはいえ、これはフッサールという思想家をトータルに捉えようというものではない。「イデーン」第二部を中心にして、フッサール晩年の思想を、自分自身の思想にからませながら論じたものである。メルロ=ポンティは、彼自身の現象学を、フッサール晩年の思想によって改めて根拠づけたいと考えたといえよう。

若いころのフッサールの思想は、「現象学的還元」ということばで説明されるようなものであった。それは、フッサール自身が言うように、デカルトの伝統を回復するものであった。デカルトは、自我を含めて、意識にとって対象として現れるすべてのものを、意識の明証性にもとづいて基礎づけることを目的としたが、その意識とは「我」の意識ないし我そのものであって、きわめて個人的なものである。だから場合によっては独我論に陥る可能性を孕んでいた。デカルトが独我論に陥らなかったのは、かれが自我を、そのものとしてではなく、神によって基礎づけられたものと見たからである。デカルトの著作の最大の意義は、神の存在証明をそつなく行ったことにあるとする見方もあるくらいだ。
要するに人間の意識を神に関連付けることで、独我論に陥ることを免れた(と思うことができたと)いうわけである。

フッサールは、デカルトとは違って、自我の根拠として神を持ち出すようなことはしなかった。だから、独我論に陥る可能性が非常に高かった。事実、若いころのフッサールの思想は、独我論と言ってもよい。その独我論をフッサールは、独我論と見えないように工夫せざるをえなかった。それが「現象学的還元」と呼ばれるもののそもそもの存在理由だった。「現象学的還元」というのは、意識に現れるさまざまな事象を、そのもの自体として、ありのままに受け取ろうという態度であり、それに実在性を認めたり、あるいはそれの観念的な性格を強調したりなどしない立場である。要するに、事象をとらえるのに、実在論的な見方や観念論(主知主義)的な見方を離れて、つまり一切の前提を離れて、それ自体の現れを虚心に叙述するという態度に徹したのである。

フッサールの現象学は、基本的には、意識にとっての直接的な与件から出発し、それを意識の対象としながら、意識がそれを構成することで、概念的な認識に高まっていくという態度をとっている。その点では、カントと同じである。カントと違うのは、意識の与件をそのものとして捉え、その背後に物自体などという仮構を設定しないこと、カントが原初的な感覚と呼んだものを、意識の対象としてのノエマとよび、意識そのものを、何物かについての意識の働きとしてのノエシスというような目新しい言葉で呼んだことである。いづれにしてもフッサールは、カントを復興したという点で、新カント派の流れに掉さしたということができる。

メルロ=ポンティは、現象学を標榜するものとしては、こうしたフッサールの基本的な立場を引き継ごうとするわけであるが、しかし、そこには二つの難点があった。ひとつは、フッサールの認識論のもつカント的な不徹底さであり、もうひとつは、他者の問題である。認識論におけるカント的な不徹底さとは、フッサールもまたカントと同様に、意識の与件を原初的な材料としたうえで、意識の構成作用がそれを概念的な認識に高めてくという構図をとっていることだ。それに対してメルロ=ポンティは、カントとは関係のないゲシュタルト説に依拠しながら、意識の原初的な内容はすでに意味を帯びているとした。カント=フッサールの立場では、意味は意識が対象の外部から対象に付与するものなのに、メルロ=ポンティは、意識と対象とは外在的な関係にあるのではなく、原初的な対象そのものがすでに、意識による意味付与作用を受けていると考えた。なぜそうなのかは、人間が抽象的な意識として存在しているわけではなく、すでに世界の中に放り出されたものとして存在しているのであり、そうした存在し方は、世界を意味を帯びたものとして捉えざるを得ないからだ。たとえどんな原始的な意識の事象であっても、それはすでに意味を帯びたものとして現れる。

他者の問題についても、若いころのフッサールの思想では、それを十全に説明することはできていない。フッサールもまたカント同様に、意識から出発するのであるから、人間を意識の担い手とするかぎりで、自分とは別の意識を、それ自体として受け入れるわけにはいかない。他者はあくまでも、自分の意識にとっての対象でしかなく、その点では物と異なるところはない。ただ、カントといえども他者の存在を認めないわけにはいかず、それを私にとっては直接接することのできるものではないが、普通の物がそうであるように、「物自体」の現れとして捉えることができるといった具合に、中途半端にお茶を濁したのである。

メルロ=ポンティとしては、フッサールに師事する現象学の徒として、意味の問題と他者の問題とを、現象学の理念と整合性を保ちながら説明する必要があった。「哲学者とその影」と題したこの論文は、そのような要請にこたえようとしたものである。

この論文の中でメルロ=ポンティが言っていることは、「イデーン」第二部で展開されたフッサールの晩年の思想に、これらの問題への答えが提示されているということである。「イデーン」について、小生が読んだのは第一部だけであり、第二部は未読なのであるが、その限りで、あまり大したことは言えないが、すくなくともメルロ=ポンティがそれをどのように解釈していたかくらいは、示すことができると思う。

まづ、意味について。晩年のフッサールには「世界の定立」とか「日常世界」とかいったキー概念があるが、それは、われわれ個人は世界のうちに生きているのであり、そのわれわれが生きている世界とはすでに意味を帯びた、というより意味に満ちた世界だ、ということである。それぞれの動物には、それぞれの種に応じた生き方のスタイルがあるように、人間にも人間固有な生き方のスタイルがある。そのスタイルは、世界とのかかわりを成立させるものだ。人間は透明な意識として世界に生まれてくるわけではなく、世界のなかで生きられるように、つまり世界にうまく適応できるようにできている。そうした世界への適応は、生き方のスタイルを媒介にして行われるのであるが、そのスタイルの根拠となっているものが意味の体系なのである。世界は意味に満ちている。その意味がわれわれ人間を行動に導くのである。

意味の問題が解決されれば、他者の問題もおのずから解決される。他者もまた、世界の定立と共にすでに与えられているのである。われわれがそれを、自分の意識の対象として扱うのは、世界がすでに他者を含んだものとして定立されているからである。

以上は、あくまでもメルロ=ポンティを通じたフッサール像の一端である。あたらずとも遠からずと、いえるのではないか。




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