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パイドロス読解その四


パイドロスがリュシアスの著書を読み終わったときにソクラテスが見せた反応は、パイドロスの予想に反して否定的なものだったが、ソクラテスはその否定的な意見を皮肉たっぷりに言う。まずはリュシアスの文章を褒めると見せて、じつはけなすのだ。彼がリュシアスを褒めると見せたのは、リュシアス本人ではなく、リュシアスの言葉を読んだパイドロスを誉めるというやりかたを通じてだ。「どうですか、ソクラテス、すばらしい話しぶりだと思いませんか」というパイドロスの質問に対してソクラテスは、「いや、神業といってもよいだろう。友よ、ぼくは茫然自失してしまったほどだ」と答えるのであるが、じつは「ぼくのこの感動は君のせいなのだ」と言うのである。リュシアス本人の著書ではなく、それを読んだパイドロスに感動したというわけである。つまりリュシアス本人のことはどうでもよいと言っているわけだ。

そのうえでソクラテスは、リュシアス本人の話をけなしにかかるのだが、その理由というのは、リュシアスの話のうちで自分の注意をひいたのは修辞的な面だけで、肝心の主題については、「同じことを二度も三度もかりかえして話す」だけで、「あまり話の種の持ち合わせがないかのよう」であり、あるいは「この種の話題には全然関心がないように見える」。というわけで、リュシアスの話は、「同じ事柄をああも言いこうも言いしながら、どちらからでも誰よりもうまく話せるのだぞということを得意になって見せている」という印象を与えるだけだというのである。

そこでその肝心な主題、それは恋についてだったが、その点についてはリュシアスの意見に納得するわけにはいなかい、とソクラテスは言う。そんなことに納得をしたら、昔の賢者たちから徹底的に反駁されるだろう。自分はそうした賢者たち、たとえば佳人サッポーとか賢者アナクレオンから、恋についての話を聞いたような気がするが、その話はリュシアスの話とは正反対だった。自分としてはその話に基づいて、リュシアスの話より「見劣りのしないようなことを話せるような気がするのだ」とソクラテスは言うのだ。

それを聞かされたパイドロスは、是非その話を聞かせて欲しいと詰め寄る。その様子にかなり切羽詰まったものを感じたソクラテスは、「おや、パイドロス、ぼくが君をからかって、君が愛してやまない人に文句をつけたのを、本気にうけとったのだね? そしてほんとうにぼくが、彼の才知と張り合って、別のもっと多彩な話を試みようとしているとでも思っているのだね?」といって牽制するのであるが、パイドロスはますます頑なになって、ソクラテスに話をするように迫る。「胸の中にもっているとおっしゃるものをあなたが話さないうちは、私たちはここから立ち去らないのだというふうに、ちゃんとあなたの心を決めることです。ごらんなさい、私たちは人気のない場所に、二人きりでいるのですよ」と言って、パイドロスは、ソクラテスが話さないうちは、ここから動かないと詰め寄るのである。さもないと、力づくでもやらせるぞと言うのである。

パイドロスの剣幕に接したソクラテスは、驚いたふりをして、「さりとてそれは殺生な! パイドロス、ぼくがしろうとのくせに有能な作家の向こうを張って、同じ題目で即席の話なんかすれば、笑い者になるのがおちではないか」と謙遜してみせるが、パイドロスはおとなしく引き下がらない。もしソクラテスが、「このプラタナスの面前において、その話をわれに語らぬとあれば、今後はいっさい、何人のいかなる話をも、汝に示すまじく、伝えまじきことを誓う」と言って、脅迫する始末。ここでパイドロスが誓いの言葉にプラタナスを持ち出して来たのは、それにふさわしい適当な神の名が思い浮かばなかったということになっている。ギリシャ人は、こういう場面においては、かならず何かしらに誓わねばならぬという強迫観念をもっていたようである。

パイドロスの剣幕に辟易したふうのソクラテスは、「まいった! ひどい男だ、話し好きの男を命令どおりに動かす秘訣をまんまと発見しおったな」と言いながら、話をすると約束する。ただし条件があると言いながら。その条件とは、顔を隠しながら話すというものだった。「一気かせいに話をすませるために、そして君を見ているうちに恥ずかしくなって言葉につまり、というようなことにならないためにね」というのがその理由だった。ともあれこうして、ソクラテスは、名高い弁論家リュシアスの向こうをはって、ほかならぬリュシアスの話と同じ主題について、つまり恋についての自分の意見を話す段取りになったのであった。

話を始めるに先立って、ソクラテスはムーサの神に呼びかける。「いざや来りて、わが物語るをたすけたまえ」と。ここでソクラテスが呼びかけたムーサの神は、技芸をつかさどる神である。恋の神であるアフロディテではなく、ムーサに呼びかけたのは、これから自分が話す事柄のうちで、主題となる恋のことよりも、自分の話し方の技術がうまく運ぶようにと願っていることのあらわれである。つまりソクラテスは、リュシアスに対抗するにあたって、話の主題のよしあしよりも、話し方のよしあし、つまり弁論の出来具合のほうを気にしているといえそうである。

さて、そのソクラテスが話した内容というのが意外なものであった。それは、恋する者に身をまかせるよりも、恋していない者に身をまかせる方が望ましいというふうな議論であり、その点ではリュシアスの議論と何ら変わりはなかったのである。ソクラテスは、この主張の裏付けとして、恋している者の悪徳を次々と数え上げ、それらを理由として、恋する者に身をまかせるのはよくないと結論付けるのであるが、その理由付けはリュシアスのものとほとんど変わりはない。ということは、ソクラテスはリュシアスを反駁するような話をすると言っておきながら、実はリュシアスを補強する役割を果たすわけだ。なぜそんなことになってしまうのか。それが、この部分のひとつのポイントになっている。

だが、リュシアスの議論と異なった点もある。それは恋についての厳密な定義をして、それを踏まえながら話を進めるというものだ。リュシアスは、恋とはなにかについて、誰もが知っていることを前提として、それを厳密に定義しないままに議論をした。だから、話す者と聞く者との間に共通の了解があるとは保証されず、その結果、話がちんぷんかんぷんなものになる恐れがある。それを回避するためには、まず議論の主題について厳密に定義し、その理解を話し手と聞き手の間で共有しておかねばならない。そう言ってソクラテスは、恋についての厳密な定義をまず提起するのである。

ソクラテスの恋についての定義とは次のようなものだ。まず恋とは一つの欲望であること。ところで我々のなかには、生まれながらに備わっている快楽への欲望のほかに、最善のものをめざす後天的な分別の心と、この二つの種類の力がある。我々の心の中ではこの二つが相和したり相争ったりしている。分別が勝つ時にはそれは「節制」とよばれ、欲望が勝つ時には「放縦」と呼ばれる。放縦には色々な種類のものがあり、たとえば食欲が勝利する場合にはその者は「食いしん坊」と呼ばれる。それと同じように「盲目的な欲望が、正しいものへ向かって進む分別の心にうち勝って、美の快楽にみちびかれる」とき、それがエロースつまり恋と呼ばれるのだ。




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