知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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パイドロス読解その八


あらゆる人々の魂は、かつて一度は真実在を見たことがある。何故なら、「人間がものを知る働きは、人呼んで形相(エイドス)というものによって総括された単一なものへと進みゆくことによって、行われなければならないのであるが、しかるにこのことこそ、かつてわれわれの魂が、神の行進について行き、いまわれわれが<ある>と呼んでいる事物を低く見て、真の意味において<ある>ところのもののほうへと頭をもたげるときに目にしたもの、その物を想起することにほかならないのであるから」

この部分は、プラトンの有名な想起説に触れたものだ。プラトンは「国家」編において、洞窟の比喩を用いながら、イデアの概念について展開して見せたのだったが、そのイデアというものは、洞窟の外側にあって、洞窟の入り口近くに置かれている蝋燭の光を通して、洞窟の壁にその影を映すのであるが、洞窟の中にとらわれている人は、その影を実在と勘違いしている。しかし、真の実在は、洞窟の外側にある。その真実在をプラトンは、ソクラテスの口を通じてイデアと呼んだわけだが、それが実際にどのようなものであるかについては、詳しく触れることがなかった。それをプラトンは、「パイドロス」のこの部分で、詳しく説明しているのである。

プラトンは真実在を、「国家」編においてはイデアと呼んでいたが、ここでは「形相(エイドス)」と呼んでいる。言葉は違うが、内容的には同じものと見てよい。イデアにせよ、エイドスにせよ、事物の真実の姿である。われわれはあるものを知るとき、それをイデアないしエイドスのあらわれとして、あるいは範例として知る。事物の現れ方は雑多であるが、われわれはその雑多なあらわれを統覚することで、事物を一つのあるものとして認識する。このあるものがイデアないしエイドスなのである。このように、われわれの知の働き、つまり認識作用は、このものをあるものして捉える働きである。そのような働きができるのは、われわれにはもともと真実在についての記憶があるからである。その記憶を、このものを見ることで想起し、このものをあるものとして認識するのである。われわれはその真実在についての記憶を、かつてわれわれの魂が、神々の行進に従って、天界の外側に出た時に、真実在を見たことによって得た、その記憶を、われわれは想起することで、具体の現象を、普遍的なイデアの似姿のようなものとして捉えることができるのである。

プラトンのこの想起説は、以後の西洋哲学に甚大な影響を及ぼした。西洋哲学は、ある意味で、プラトンの想起説への注釈からなっていると言ってよいほどである。そのプラトンの想起説にもっとも忠実なのはカントである。カントは、われわれの感覚に与えられた雑多な現象の知覚を前提にしながら、人間がアプリオリに備わっているカテゴリーをそれに当てはめることで、概念的な認識が成立するとしたわけだが、そのアプリオリなカテゴリーが、プラトンのイデアないしエイドスに相当する。プラトンは、イデアはわれわれの魂が、われわれの肉体に乗り移る前に、神々のおかげで獲得したものだと言ったわけだが、近代人であるカントは、さすがに神を持ちだすようなことはしない。ただ、そうしたアプリオリなものは、人間に生まれながらに備わっている能力だと言い換えた。そういう言い換えはしているけれども、内容的にはなんら異なるところはない。

アプリオリという言葉は、経験に先立つという意味であり、先験的と訳される。しかもあらゆる経験に先立っているのであるから、われわれがそれを、経験を通じて獲得したのでないことはたしかだ。経験によらずして、すでに人間に備わっているのだから、先天的と言い換えることもできる。先天的とは、生まれながらという意味である。人間は、どういう事情からかはわからないが、生まれながらにして、事柄や事物を概念的に認識する能力をもっている。その能力をプラトンは、魂が肉体に宿る前に、つまり個別の人間となる前に、神々の計らいによって獲得したと言うわけである。プラトンにとっては、獲得されたものには、その理由がなければならない。その理由となるのは、神々以外にはありえないのである。ところがカントは、必ずしも無神論者ではないが、人間の知の起源を神に求めることは、何も説明したことにはならないと思って、とりあえずは神を持ち出さない代わりに、それをアプリオリなものとして、一種の棚上げにしたのではないか。

日本の思想家広松渉も、人間の知の働きを、あるものをなにものかとして捉える働きだとして、それを次のように表現している。「意識は、必ず或るものを或るものとして意識するという構造を持っている。すなわち、所与をその"なまのもの"als solches に受け取るのではなく、所与を単なる所与以外の或るもの etwas Anderes として、所与以上の或るもの etwas Mehr として意識する」。これを言い換えれば、「イデアールな etwas がレアールな"所与"においていわば肉化 inkarnieren して現れる」ということになる。このイデアールな etwasが、プラトンのイデアないしエイドスに相当するわけだ。広松の場合にはそれを、プラトンのように神によって基礎づけたり、カントのようにアプリオリなものだと言ったりせずに、人間の意識が共同主観的に構成したアポステリオリなものだとするところに特徴がある。

ともあれ、真実在にはさまざまなものがある。プラトンはその例として、正義とか節制をあげているが、パイドロスとの対話を通じてもっとも喫緊であったものは、美である。そこでプラトンは、ソクラテスを通じて、美の意義とそれが人間をとらえたときに生ずる恋の狂気について語るのである。

美は諸々の真実在とともにかの世界にあって、燦然と輝いているので、我々の魂は何にもまして美に魅せられる。したがってわれわれは美を、この世界においても、もっとも鮮明な知覚を通じて、もっとも鮮明に輝いている姿のままに、捉えることになったのである。もっとも、その美を見ることとなった秘儀に参与したのが遠い昔になってしまった者や、あるいは堕落した者は、「美しい人に目を向けても、尊敬の念を抱くこともなく、かえって、快楽に身をゆだね、四つ足の動物のようなやり方で、交尾して子を生もうとし、放縦になじみながら、不自然な快楽を追いかけることを、おそれもしなければ、恥じもしないのである」が、そうでなく、美の記憶が鮮やかに残っている者は、美しい人を見ることで、「おののきが彼を貫き、あの時の畏怖の情の幾分かがよみがえって彼を襲う」のである。

その結果、美に直面した者、つまり美しい人を見た者は、体が熱くなるのを感じ、その熱によって、「翼が生え出てくるべきところがとかされる・・・そのような状態のとき、魂の全体は、熱っぽく沸きたち、はげしく鼓動する」のである。それが恋の狂気といわれるものだ。なぜなら、そういう状態では、「この世の何人をも、この美しい人よりも大切に思うことは」なく、「母を忘れ、兄弟を忘れ、友を忘れ、あらゆる人を忘れ」てしまうからである。これを狂気と言わずに何と呼んだらよいのだ。恋とは美しい人へのあこがれの心情であり、その心情はそれにとらわれた者を狂気に駆り立てるのである。




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