知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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民主主義と正義(四)


7 ケルゼンの自由主義的民主主義論
 民主主義と自由主義とは本来異なる概念であり、両者は必ずしも密接に結びつくべき必然性を持たないとするシュミットの主張とは対照的に、民主主義と自由主義とは、歴史的に密接に結びついてきたばかりか、理論的にも結びつくべき運命にあると主張する立場もある。ハンス・ケルゼンはその代表である。ケルゼンは、民主主義というものは、自由と平等を目的としており、定義からして自由主義と不可分のものであると主張した(ケルゼンの議論は「デモクラシーの本質と価値」に手際よく要約されている)。彼も、議会主義が必ずしも民主主義と必然の結びつきをもたないとする点ではシュミットと一致するが、しかし彼のいう議会は、民主主義を実現するための一つの手段として観念されており、シュミットの言うような意味での、自由主義のための機関ではない。
 ケルゼンの議論は、ほかにもシュミットと対照的な面を持っている。まず独裁についての見方である。シュミットは、すくなくとも委任独裁については、民主主義と結びつく可能性を認めたわけだが、そしてその点では民主主義の一つの帰結と見たわけだが、ケルゼンは独裁を民主主義とは相いれない、全く反対のものだとした。ケルゼンにあっては、民主主義の対立物として独裁が位置付けられ、独裁の回避と民主主義の貫徹こそが、政治に課せられた最大の課題だとした。こうしたケルゼンの見方には、同時代に台頭しつつあったファシズムなどの全体主義的傾向への危機感があったのだと思われる。同時代への危機感はシュミットも共有していたが、シュミットの場合にはその危機感がドイツ民族の復興への願いと、その実現を推し進めるものとしての独裁への期待として現れたのに対して、ケルゼンは独裁を回避して、民主主義の徹底によって、その危機を乗り越えようと考えたわけである。
 次に国家についての見方である。ラスキほどではないが、ケルゼンもまた、多元主義的な国家観を抱いており、国家の役割を純粋に政治的な領域に限定しようとする傾向と、国家内部の権力を分散させて、相互にけん制させることで、独裁の登場を防ごうとする傾向を併せ持っている。この点では、国家の役割を社会のあらゆる領域にまで拡大させ、国家内部の権力をひとつの機関に集中させることで、指導者による迅速な意思決定を図ろうとするシュミットとは百八十度異なっている。
 また、議会主義についての見方も正反対である。シュミットは議会主義とは自由主義の現れであって、その本質は熟議と称するものを通じた少数意見の尊重にあるが、これこそ必要な決定をいたずらに長引かせるためのおしゃべりにすぎないとした。それに対してケルゼンは、熟議こそが、少数意見をなるべく尊重することで、決定された事項に或る程度の正統性を保証するための担保となると考えた。ケルゼンもまた、民主主義とは統治の主体と客体とが一致することを本質とすると考えたが、主体である国民の意見が必ずしも一致するとは限らない。そこで多数決原理が問題となるわけだが、多数決原理が形式的に適用されると、国民の間に分断をもたらす原因をつくる。熟議を通じて少数意見を取り入れることで、統合の機運が高まり、分断が克服される効果が期待できる。そうケルゼンは考えて、議会での討論を無用のおしゃべりではなく、国民統合のための必要なプロセスと見たわけである。
 以上を通じて浮かび上がってくるのは、シュミットが民主主義と自由主義とを別なものとして切り離したうえで、両者の結びつきをなるべく排除しようとするのに対して、ケルゼンは、民主主義には本来自由主義的な概念が不可欠なものとして組み込まれているのであって、それ故にこそ、議会を通じた民主主義の実現こそ最も重要なことだと主張した、ということである。
 シュミットは民主主義と自由主義とを切り離すことで、とかく曖昧になりがちだった民主主義の概念を明確にし、それを通じて民主主義の内実を徹底的に思索したということが言えよう。シュミットによれば、大部分の政治学者は、民主義と自由主義とをごちゃまぜにすることで、民主主義の本質を誤解しているということになる。
 それに対してケルゼンは、たしかに議会主義は民主主義と不可分に結びつくわけではないが、議会主義も含めて自由主義的な制度は、民主主義の実現にとって必要不可欠なものだと改めて主張した。そのことによって、民主主義と立憲主義とは違うものだと認めたうえでなお、それゆえにこそ両者の結びつきが重要な意味を持つのだと主張したわけである。

8 民主主義・自由主義の上位概念としての正義
シュミットの議論は、民主主義と自由主義とを切り離したうえで、自由主義的な概念に攻撃を加えることに重点があるが、その結果独裁を容認することにつながった。独裁は自由主義とは正反対だが、民主主義とは共存できるとシュミットは考えたわけだ。それに対してケルゼンは、自由主義を擁護し、民主主義が本当に機能するためには、自由主義の理念と強く結びつくことが必要だと主張した。だが、こうした自由主義賛歌ともいえる立場からは、容易に自由万能論が生まれてくるし、それは究極的には、平等の否定と格差の承認に結びつく。その現代的な形態として現れているのが、アメリカの自由主義の極端なものとしてのリバタリアニズムである。リバタリアニズムは、個々の人間の無条件の自由を主張する。その自由が格差を生んでも、それは天の配列の結果なのだから容認されるべきだという議論になる。
 独裁も、リバタリアニズムも、それぞれ独自の基盤の上に立っており、一方が他方を批判することには、なかなか納得できる理屈がない。何故なら、二つのものを比較して、それぞれを批判するためには、共通の土俵がなければならないからだが、この土俵がなかなか見つからないからだ。この場合、二つのものを比較・検討するために必要とされる共通の土俵とは、それら二つのものに共通する上位のものの概念だということは、アリストテレス以来の伝統的でかつ合理的な考え方である。というのも、あるものの概念を定義するには、それよりも上位のものの概念をもとにして、その上位の概念に含まれるほかのものの概念と比較すること以外に、説得力ある方法はないからだ。ここからたとえば、犬とは、肉食を好む哺乳類のうちで、猫とも熊とも異なったもので、ワンと鳴く生き物である、というような定義が意味をもつようになるわけだ。つまり同じ類の中での種差によって対象を定義するやり方である。
 独裁といい、自由主義といい、同じく政治的な概念である。しかして、それらに共通する上位概念としては、正義があげられる。正義という概念を通じてこそ、独裁と自由主義とを、同じ土俵の上で比較・検討することができる。
 この正義を、政治を考察する際の指標、つまり土俵として設定したのは、アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズである。ロールズは、アメリカの政治の伝統である自由主義の立場に立ちながら、自由主義の行き過ぎが著しい不合理を生むことを勘案しながら、どうしたら正義にかなった自由主義が成立できるのか、それを集中的に考えた思想家である。その意味で、アメリカのリベラリズムの理論的な支柱となった人である。
 ロールズの正義論は、主著「正義論」のほか、比較的初期の論文「公正としての正義」で展開されている。ロールズの思想の特徴は二つある。一つは、他人の自由と衝突しないかぎり、人は自分自身の自由を追求できる平等の権利を持つという考えであり、もう一つは、不平等はある程度容認されるが、それによって他人の利益が侵害される場合には恣意的になる、という考えである。一番目の考え方は、アメリカ人の好きな機会の平等へとつながり、二番目の考え方は、格差原理として、格差が容認される限界のようなものを設定しているわけである。
 より大きな問題は格差原理である。ロールズに従えば、他人をだしにして自分の利益を図ることは正義に反するが、自分の利益追求の結果、その恩沢が他人にも及び、結果として社会の成員全体が幸福になるのであれば、それは正義にかなっている。この考え方は、悪名高いトリクルダウン理論の根拠となったもので、その背景には、ピグーの厚生経済学の考え方があった。
 ロールズの考え方は、一見合理的に見えて、かならずしもそうではない、と批判されるようになった。ロールズはある種のトルクルダウン理論を展開しているが、この理論で恩恵を受けるのは、金儲けに成功した連中だけで、そのほかの大部分の人たちは、ほとんど何らの恩恵にもあずかれないのが現実だ。にもかかわらず、この理論を振りかざして正義を云々するのは欺瞞的なやり方だ、そういう批判が高まってきたのである。
(追記)ロールズの議論は、正義に照らしての自由の限界のようなものを対象にしており、独裁について正面から論じることはないが、彼の理論が独裁を正義に反したものだと考えていることは間違いない。何故なら独裁は、定義からして自由とは正反対だからであり、その範囲で正義に反しているからである。




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