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カール・シュミットの民主主議論


カール・シュミットは、「現代議会主義の精神史的状況」の中で、民主主義と議会主義とは必ずしも密接な結びつきを持つわけではないことを明らかにしようとした。議会主義の極端な反対物は独裁だが、民主主義は容易に独裁を導く。「近代議会主義と呼ばれているものなしにも民主主義は存在しうるし、民主主義なしにも議会主義は存在しうる。そして、独裁は民主主義の決定的な対立物ではなく、民主主義は独裁への決定的な対立物ではない」(樋口陽一訳から)というのが、シュミットの基本的な考え方である。

シュミットが、民主主義から独裁が生まれた例としてまずイメージしているのは、フランス革命におけるジャコバン独裁と、ロシア革命におけるボルシェビキの独裁のようだ。この二つの革命はどちらも、民主主義を標榜して始まり、独裁に終わった、というのがシュミットの認識であるように見える。それ故、民主主義と独裁とは共存できる、と考えたわけであろう。独裁が民主主義の否定であるとか、その堕落した形態であるとかは考えずに、独裁を民主主義の落とし子と考えるところがシュミットの特徴である。こうした枠組を前提とすれば、大手を振って民主主義を批判することが出来る。そうでもしなければ、いきなり何の前提も無しに、民主主義を批判することはできない。それは近代に生きる学者としては自殺行為のようなものだ。

シュミットの理解によれば、ヨーロッパで民主主義が逃れがたい運命であるかのように広く信じられるようになったのは19世紀の30年代以降ということになる。それ以来、民主主義を否定する動きは、反動として非難された。民主主義は明るい未来に向かって開かれた、歴史的な必然性をもつ動きなのであり、それを否定することは、歴史の歯車を逆転させようとするものである、と受け止められてきたわけである。

ところが、それは間違った思い込みだ、とシュミットは言う。「民主主義は保守的でも反動的でもありうる・・・民主主義は、軍国主義的でも平和主義的でもありうるし、進歩的でも反動的でも、集権的でも分権的でもありうる」(同上)と言うのである。

何故そう言えるのか。シュミットは、民主主義の本質を、一連の政治的な同一性に求めているようである。「治者と被治者の、支配者と被支配者との同一性、国家の権威の主体と客体との同一性、国民と議会における国民代表との同一性、{国家とその時々に投票する国民との同一性、}国家と法律との同一性、最後に、量的なるもの(数量的な多数、または全員一致)と質的なるもの(法律の正しさ)との同一性」である。

しかし、そのような同一性は、一種の擬制であって、現実には達成できない。現実には、治者と被治者とは同一ではありえない。国家がその時々に投票する人々の意思を正確に代表しているとはいえない。現実には、治者は自分の意思を被治者の意思と擬制して被治者にそれを押し付けるのである。「政治的権力は、国民意思に由来しているはずなのに、その国民意思を自分がまずはじめて形成することが出来るのである」(同上)。

このように、民主主義についてのシュミットの認識はかなりシニカルである。しかしそれにもかかわらず、民主主義が一定の意義をもっていることを、認めないわけではない。なんと言っても民主主義は、今日のあらゆる形態の政治権力を、究極的なところで根拠付けるための正統性を付与できる唯一の概念だからだ。政治的な正統性を主張できない政治権力は、ただのむき出しの暴力に過ぎない。それ故、今日ではあらゆる政治的権力が、みずからの政治的な正統性の根拠として、民主主義に立脚していることをあげるわけである。唯一の例外はイタリアのファシズムで、これだけは「理論上も実際も民主主義の支配を無視した」(同上)とシュミットは言う。

以上の議論は、民主主義についてのシュミットのとりあえずの問題提起と言える。この論文は、そうした問題提起にとどまっており、民主主義についての立ち入った議論は別の機会にゆだねられているように見える。シュミットとしては、同時代の政治的な議論の空間の中で、何の疑問もなしに、絶対的なものとして前提されている民主主義の概念に一定の風穴を開け、それを通じて、曇りの無い目で政治を見る態度を養う必要がある、と考えたようである。

民主主義を絶対的なものとして前提するような態度からは、民主主義がなぜ独裁を生むのか、説明することはできない。独裁は、過去の遺物ではなく、シュミットの同時代においてもヴィヴィッドな政治的現象であったし、またそれ以上に重要なことには、独裁には現代の政治にとって福音になるような要素もあるのだ、とシュミットは考えていたフシがある。




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