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バルダミュをめぐる女性たち:夜の果ての旅 |
フランス文学といえば、強烈な個人主義と男女の性愛が最大の特徴だ。セリーヌの小説「夜の果ての旅」も、その伝統に忠実である。この小説は、強烈な個人主義者フェルディナン・バルダミュの女性遍歴の物語と言ってよい。 この小説の中でバルダミュが最初に愛し合うのはアメリカ娘ローラである。戦場から解放されてパリの町をブラブラしている時に出会った。二人はオペラ・コミック座の休憩室で出会ったのだが、バルダミュはこのローラから世間というものを学んだと言っている。世間とは世知辛さという意味である。 彼女はセックスの面では親切だったが、精神の面では互いにしっくりいかなかった。彼女はバルダミュに、「勇気にあふれた神々しい精神」を求めていたのに、バルダミュはそれと正反対だった。バルダミュは、「まったく正反対の心が押し通す理由を、どれもこれもはっきりした理由を無数に見いだしていたのだ」 そんなバルダミュに向ってローラは言うのだった。「祖国が危機に瀕しているときに、戦争を否定するなんて、気違いか臆病者ぐらいよ」と。それに対してバルダミュは、戦死するのは犬死だと抗弁するのだが、ローラには受け入れられなかった。そんなわけでバルダミュはローラから愛想づかしをされる形で見捨てられてしまうのである。 二番目に愛したミュジーヌとはエロット夫人の店で会った。エロット夫人は、下着や手袋などを商うかたわら、女を抱かせてくれるのだった。そこでバルダミュも女を抱きに通ったというわけだ。「やりたい気持ちというのは辛抱できんものだ、かゆみと同じで」とつぶやきながら。 そんなわけだから、「彼女の内的生活には惑いのはいりこむ余地はなかったのだ、ましてや、真実の入り込むことなど」。それでも彼女は、祖国が戦争に勝つことを望んでいた。ローラと違ってフランス人なのだし、そのフランスが勝つことを願うのは自然なことだった。だからバルダミュには我慢がならなかったのだろう。南米の客と深くつきあうようになり、そのうちバルダミュを捨てていなくなってしまうのだ。捨てられたバルダミュは反省する。「僕は執行猶予の死刑囚の身で、恋をしていたのだ」と。 バルダミュはまたこうも思うのだ。「ミュジーヌもローラと同様、僕がただちに前線に引き揚げ、二度と再び戻ってこないように切望していた」と。彼女らはこんなふうに思っているに違いないのだ。「かわいい兵隊さん、あんたたちはどうせすぐに忘れられてしまうのよ・・・ですから聞き分けをよくして、早くくたばってちょうだいね」と。 アフリカでは、女を愛する機会はなかった。アフリカは、金をもうけるだけの土地で、女を愛するような土地ではなかったし、第一女はひとりも存在しないのだ。 アメリカに渡ると、ローラを探して訪ねた。彼女しか頼れるものがいなかったし、もしかしたら昔の誼で金を貸してくれるかもしれないと考えたからだ。だがその考えは甘かった。彼女はもっとも踏みつけなやり方で、バルダミュを追っ払ったのだ。バルダミュは怒る。ローラといい、ミュジーヌといい、「二人の女性に対する激しい憎悪が胸中にわきおこった。そいつはいまもって続いている、僕の生きがいの一つになってしまったのだ」 そんな傷心のバルダミュを慰めてくれたのは、モリーという名の娼婦だった。モリーは自分のかせぎをつぎ込んでバルダミュの面倒を見てくれた。できたらいつまでも一緒に暮らしたいと言うのだった。バルダミュは、一つにはヒモになったことへの羞恥心と、もう一つにはホームシックから、モリーを捨ててフランスに戻ることにしたのだった。だがモリーの真心はいつまでも忘れなかった。モリーはただ一人心を許せる女性だったのだ。 久しぶりに戻ったフランスでは、心から愛しあえる女性には出会えなかった。セックス相手なら見つかった。一人はロバンソンの恋人になったマドロン、もう一人は看護婦として雇ったソフィアだ。マドロンとはトゥールーズで出会った。その時マドロンは、ロバンソンの婚約者といった境遇だったのだが、いとも簡単にバルダミュに抱かせたのだった。バルダミュは、マドロンをセックス相手としては重宝したが、心から愛することはなかった。マドロンのほうも、バルダミュに執着する様子はなかった。彼女が執着したのはロバンソンなのだ。彼女はロバンソンをパリまで追いかけて来て、婚約履行をせまった挙句、拒絶された腹いせに、ロバンソンの腹に拳銃の弾を撃ち込むのだった。 ソフィアはスロバキア人で、フランス語はあまりしゃべれなかったが、セックスの相手としては申し分なかった。バルダミュは久しぶりに性的興奮に震えるのだった。「なんという溌溂さ! なんという肉付き! たまらない魅力! ぴちぴちして! ひきしまって! 驚くばかり!・・・僕ときては、ひと言で言えば、ただもう彼女に見とれてやまないありさまだった」のである。 こんなわけで、バルダミュが女と愛し合ったのは、だいたいが肉体を通じてであって、心で愛し合ったのは、モリーとの間を別とすれば、全くなかったといってよい。そのモリーとの間の愛も、半ばは憐憫によって動かされていたといってよい。男女の健康な愛ではなかったのだ |
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