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子規と蕪村


芭蕉が俳句の確立者とすれば、子規は近代俳句の確立者、あるいは俳句の中興者ということになろうか。この二人にはかなりな相違がある。芭蕉が余韻を重んじるのに対して、子規は写生を重んじるということだ。芭蕉の俳句の余韻は、深層意識の光景を詠むところからもたらされるということについては、前稿で指摘したとおりだ。深層意識に映った光景というのは、理智の働きを蒙る以前の、つまり分節される以前の混沌としたものだった。その混沌がかえって、俳句に余韻を生む。これに対して子規の写生は、どのようにして俳句を生むのか。それを考えるために、いくつかの作例に即して、子規の俳句の詠み方を分析してみたいと思う。

まず、子規の俳句のうちもっとも有名な一句。
  柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
これは、松山から東京へ戻る途中、奈良に立ち寄った際に詠んだ句で、子規の実際の体験を詠んだものだとされる。非常に素直な句で、法隆寺の鐘をきいた時の子規の気持が、ストレートに伝わってくるようである。このわかりやすさが、写生から来ていることは見やすい。写生であるから、その場の光景がありありと浮かんでくるわけだ。この句はしかも、時間意識も感じさせる。というのも、音の響きというものは、一定の時間の流れというか、時間の幅を前提としているからだ。一定の時間の流れに乗って、鐘の音が聞こえていた、その時自分は法隆寺の近くの茶屋のようなところで柿を食っていた。そういう旅の一コマが、ほほえましく伝わって来る。つまりこの句は、誰もが感情移入できるような単純な光景を詠っているわけで、その点では、読者の表層意識にとって理解しやすい句なのである。読者の表層意識に訴えるだけではない、この句を詠んだ子規自身が、その時の自分の表層意識を占めていたものを、そのまま文字にしたといえるのではないか。

写生を旨とする子規の俳句の作例をもうひとつ
  鶏頭の十四五本もありぬべし
これは、庭に咲いている鶏頭の花を見て、十四五本もあるかしらといぶかる様子を詠んだもの。なんということもない句で、駄作だという評価もある一方、秀作だという者もある。駄作だという者は、この句が理屈に堕ちていることを指摘する。数を云々するのは理窟を重んじるからで、鶏頭を純粋に楽しむためには数は問題ではない。なのに数にわざわざこだわるのは、写生の厳密さに気をとられているからだ、という批判が生まれる。これに対してこれを秀作というものは、その写生が単純でわかりやすく、人の理解にすとんと落ちるところがよいという。小生としては、これはやはり駄作と思わざるをえない。鶏頭が何本であっても、それが鶏頭の花の美しさにいかほどの影響をもたらすか。あまり影響はないし、また人を動かすものでもないと思う。

子規の写生がすなおに人を動かすのは、たとえば次のような句である。
  痰一斗ヘチマの水もまにあはず
これは子規辞世の句三句のうちの一つで、子規の代表作というにふさわしいものだ。痰が喉にからんだ、その量は半端ではない、このままでは苦しくて死んでしまうだろう、ヘチマの水が間に合ってくれればよいが、間に合う見込みはなさそうなので、ワシはこのまま死ぬことになるよ、という子規の気持が素直に伝わって来る。こういう素直な気持ちは誰にでも感情移入できるので、それをストレートに歌うことは、つまり感情を写生することは、人を感動させるのである。

子規の句は、膨大な数に上るが、そのわりに傑作は少ない。子規自身、傑作というべき俳句は、生涯に三つも作れればよいほうだと言っている。たしかに、写生を旨とする俳句では、傑作は生まれにくいのだと思う。俳句のように極端に短い詩形には、写生はなじまないのではないか。写生というものは、現実をそのまま、なるべく現実に近いような形で表現するもので、そこにはなにかしら理屈が介入してくる。現実をコトバで再現するためには、一定程度の理屈が必要だからだ。しかし理屈からは、なかなか余韻は生まれてこない。余韻ばかりが俳句の命ではないという見方もないではないが、わずか十七文字の詩形で、人々の想像力に訴えようとすれば、勢い余韻の力に頼らざるを得ない。

子規の写生は、その後の、いわゆる近代俳句を指導する理念になった。高浜虚子とか飯田蛇笏といった俳人たちは皆、写生を旨とした俳句作りをしたものだ。その作例を上げると、
  遠山に日のあたりたる枯野かな  虚子
  芋の露連山影を正しうす  蛇笏
どちらも近代俳句を代表する傑作といわれるものだ。国語の教科書にも載ったことがある。虚子の句は、枯野の先に日のあたった山が見えるという光景を写実的に読んだもの。蛇笏の句は、芋の葉っぱに映った山々がくっきりと見えるという光景を、やはり写実的に歌ったもので、写生そのままといってよい。こういう句に感心する人もいるのではあろうが、そういう人でも、こうした句から写生以上のもの、つまり深い余韻を感じることはないのではないか。

子規は和歌も作った。子規は俳人としての評価のほうが高いが、歌詠みとしての能力の方が格段に高かった。近代日本では俳句のほうが羽振りがよかったので、どうしても俳人子規の偉大さがクローズアップされるが、先ほども言及したように、子規には俳句の傑作といえるほどの作品はそう多くはない。子規が人気があるのは、写生なら素人でも手軽にできるので、そのお手本としての役割を期待されたからだろう。一方、和歌のほうは、俳句ほど羽振りがよくなかったので、注目度は落ちるが、子規の和歌はなかなか人をうならせる力をもっている。子規は和歌にも写生を取り入れたが、和歌は俳句より文字数が多いだけ、写生に耐えられるものを持っている。そこが子規に、自由度を与えたのだと思う。その子規の和歌のなかでも、もっとも人をうならせるものは、十首連作といった連作ものである。ある一つのモチーフをめぐって、連続的に詠んでいく。一首だけでも味わい深いものはあるが、連作として読むことで味わいは数倍される。そこに物語が生まれるからで、読者は物語を追いながら、個々の歌を詠むという趣向だ。その例を一つあげよう。
  瓶にさす藤の花ぶさ短かければたたみの上にとどかざりけり
これは、藤の花を詠った十首連作の冒頭の歌だ。病床で体の自由の利かない子規が、自分の目に映った藤の花の様子を、ありのままに写実的に歌っていく。一首一首が何という事もない眺めだが、それが十首連続すると、そこに一つの物語が生まれる。その物語が、一首一首に重なると、そこに独特の余韻が生まれる。その余韻が、写実を超えて、人の感動を呼び起こすのだと思う。

子規には歌の手本として万葉集があった。それまで歌の手本といえば、古今集に始まる勅撰集が重んじられていたのを、子規は万葉集の素朴な写実を手本とした。そうした子規の和歌の作風は、茂吉以下に引き継がれて、近代和歌の主流になっていった。和歌は俳句に比べればずっと自由度が高く、写生にもなじみやすいので、俳句に比べれば秀作の数も多い。

和歌の万葉集にあたるものとして、俳句について子規は何を選んだのか。よく言われるように蕪村である。蕪村は徳川時代を通じて画家としての名声は高かったが、俳句にも味わいの深いものを作っていた。それを子規が見出して、芭蕉と並ぶ巨匠と位置付けたわけだが、果たして蕪村の句は、子規が言うように写実的なのだろうか。作例をみてみよう。
  春の海ひねもすのたりのたりかな
これは春の海ののどかな風景を写実的にうたったものだと解釈されている。春の海ののどかな眺めを、ひねもすのたりのたりかな、という言い方で表現している。のたりのたり、という表現そのものが面白いので、これだけでも絵になりそうなところに、ひねもす、という言葉が加わることで、時間の流れの要素も入って来て、イメージが豊かになっている。単なる写生とは異なった、重層的なイメージを感じさせる句である。

  菜の花や月は東に日は西に
これは菜の花畑で見えた光景を詠んだものだ。夕方なのだろう。太陽が西に沈む一方、東の空からは月が上って来る。よく見られる光景だ。それを菜の花畑を背景にして眺めている。この句には時間の流れの要素はあまり強く感じられないが、月と太陽が一度に見られる時間を意識させるもので、たんなる写生にはとどまっていない。

  さみだれや大河を前に家二軒
これは、五月雨の降る中から浮かび上がった眺めを詠んだもの。五月雨の土砂降り雨が大河に降り注いでいる。その大河のほとりに家が二軒、心細そうにたっている。その心細さが伝わって来るように、この句は工夫されているわけだが、その工夫とは文字の間から余韻を醸し出すというものだろうと思う。この句もだから、単純な写生句とはいえない。

こうして見ると、なぜ子規の句に傑作が多くないのか、その理由がわかるような気がする。傑作といわれるような句は、写生だけからは生まれてこないのである。




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