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史的唯物論とユダヤ神学:ベンヤミン「歴史の概念について」


「歴史の概念について」は、ベンヤミンの遺稿となった作品である。彼は、これを「パサージュ論」への諸論として書いた。というのも、自分のライフワークである「パサージュ論」をフランクフルト学派の機関誌「社会研究」へ掲載することを希望したのに対して、編集部から、この膨大な研究を要約した緒論の提出を求められたからだった。そういう点では、「ドイツ悲劇の根源」とその序論である「認識批判序説」の関係に似ている。

ベンヤミンがこの緒論の中で展開したのは、「パサージュ論」の要約ではなく、研究の基本的な立場とか方法といったものだった。彼はそれを、アフォリズムのような形で展開した。もっとも彼自身の言葉では、アフォリズムではなく、トラクタートゥスと呼ばれているが。

彼がこのトラクタートゥスの中で繰り返し言っているのは、自分の方法がマルクス主義の「史的唯物論」に立脚しているという点だった。「パサージュ論」は19世紀のパリを舞台にした文明批評の壮大な展開図だったわけだが、その文明批評を史的唯物論の立場に立って展開して見せたのが、この「パサージュ論」なのだ、そうベンヤミンはいっているわけである。

しかし、彼のいう「史的唯物論」は、正統派のマルクス主義のそれとは、どこか違っているところがある。どこが違うのか、トラクタートゥスを読み進んでいくうちに、おぼろげながらわかってくるようにも思えるが、スッキリしないところが残る。やはりベンヤミンのいう史的唯物論とは、かなりユニークな、ベンヤミン固有の立場と言えるのではないか、そんなふうに思わせられるのである。

この作品は、18の箴言風の断章とA・B二つの付録からなっている。特に重要なのは第一と第九の断章である。第一の断章は、全体の序論ともいうべきもので、自分の研究が史的唯物論に立脚していることを宣言しながら、それにもかかわらず「神学」とも一定のかかわりを持っていることを告白する内容になっている。第九の断章は、「歴史の天使」と名づけられ、ベンヤミン特有の歴史観が打ち出されている。

まずは、第一の断章を読んでみよう。

「よく知られている話しだが、チェスの名手ロボットが発明されたことがあるという。そのロボットは、相手がどんな手を打ってきても、確実に勝てる手をもって応ずるのだった。それはトルコ風の意匠を着、水ぎせるを口にくわえた人形で、大きなテーブルの上に置かれた盤を前にして、すわっていた。このテーブルはどこから見ても透明に見えたが、そう見えるのは、じつは鏡面反射のシステムによって生み出されたイリュージョンであって、そのテーブルのなかには、ひとりのせむしのこびとが隠れていたのである。この小人がチェスの名手であって、紐で人形の手をあやつっていた。この装置に対応するものを、哲学において、ひとは想像してみることができる。『歴史的唯物論』と呼ばれている人形は、いつでも勝つことになっているのだ。それは、誰とでもたちどころに張り合うことができる~もし、こんにちでは周知のとおり小さくてみにくい、そのうえ人目をはばからねばならない神学を、それが使いこなしているときには」(「歴史の概念について」野村修訳、以下同じ)

ここでロボットといわれているのは「操り人形」のようなものを指しているのだろう。一見したところでは、人形が自分自身の判断でチェスをしているように見えるが、実は隠れたところでせむしの小人が操っていたという内容である。

このロボットに対応するものを、哲学においても想像できるとベンヤミンはいう。史的唯物論だ。史的唯物論も、このロボットと同じく、誰とでも張り合える、しかしそれには、「小さくてみにくい、そのうえ人目をはばからねばならえない神学」を、それが使いこなしていることが条件になる、と。

この部分の読み方にはいろいろあるようだが(徳永恂「現代思想の断層」を参照)、要するに、史的唯物論だけでは役に立たない、それが役に立つためには「神学」の支えがなければならぬ、と言っていると考えることが出来る。

ここでベンヤミンが「神学」といっているのは、キリスト教神学ではなくユダヤ神学のことだ。キリスト教神学は、歴史意識という点では、リニアな時間を核とした進歩主義的な歴史観に立っているといえるが、ベンヤミンはそのような進歩主義的歴史観を認めない。そうしたベンヤミンの時間意識は、ユダヤ神学のそれに非常に近い。筆者はユダヤ神学に詳しいわけではないが、ベンヤミン研究者の間では、ベンヤミンがユダヤ神学に大きな影響を受けていることは、まちがいのないこととされている。

だが、マルクスの史的唯物論は、基本的には進歩主義的な歴史観にたっているといえる。マルクスは、人類はリニアな時間を生きて来たのだし、今後もまたそのような時間を生きていくだろう。そして、その先には、究極的なあり方としてのコミュニズムの社会が到来するだろう、という風に考えていた。これは、キリスト教的な時間感覚と基本的に共通する見方だ。

ところが、ベンヤミンは、時間意識と言う点ではリニアな直線性ということを認めないし、バラ色の未来と言うような考え方も拒否した。ベンヤミンはいろいろなところで未来を語るべきではないといい、人は過去に目を向けるべきだと繰り返し言うわけだが、それはユダヤ神学的な立場がそう言わせるのだと思われる。

この論考の中でも、最後の付録Bの中で、そのような考え方の一端が示されている。

「周知のことだが、ユダヤ人には未来を探し求めることは禁じられていた。その一方で、律法と祈祷とが、彼らに回想を教えている。回想が、予言者に教示を仰ぐひとびとを捕えている未来という罠から、彼らを救い出す。未来のあらゆる瞬間は、そこを通ってメシアが出現する可能性のある、小さな門だったのである」(同上)

ユダヤ人にとっての未来とは、マルクスが言うような、確実にやって来る解放の瞬間を意味するわけではなく、「そこを通ってメシアが出現する可能性のある、小さな門」に過ぎない。両者の時間意識には天地ほどの相違がある。

このように、ベンヤミンが依拠すると宣言する「史的唯物論」と「ユダヤ神学」とでは、お互いかなり異質な部分が目につく。一方ではリニアな時間意識に立ち、進歩主義的な歴史観を持つのに対して、他方では時間の断続性を強調し、未来を語ることを許さない。これは異質という言葉では片づけられない事態ともいえる。むしろ相互に矛盾しあうと言ってもよい。そのような矛盾を抱え込んでいるのがベンヤミンの思想の特徴だとしたら、彼の言説が非常に晦渋でわかりづらい印象を与えるのも、ある意味当然のことといえるわけだ。

要するにベンヤミンは、矛盾を大きく包み込んだ思想家なのだ。




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