知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学 プロフィール掲示板




ベンヤミン「歴史の概念について」:歴史の天使


ベンヤミンが「歴史の概念について」の後半部分で展開しているのは、彼独自の歴史認識のあり方についてだ。彼はそれを「史的(歴史的)唯物論」と表現しているが、それがマルクス主義の主流の考え方と大きく異なっているのは、前稿で述べたとおりだ。史的唯物論の主流の解釈では、歴史というものは、基本的にはある目的に向かって直線的に進歩していく過程として捉えられている。しかしベンヤミンは、そうした歴史のとらえ方を、悪しき「歴史主義」だとして否定する。彼にとって真の史的唯物論とは、時間の中に断絶を見る見方である。時間の中に断絶を見ることによって、過去を現在への単なる過渡的なものとして抽象化してしまうのでなく、かけがいのない出来事の集積として、この「いま」と直接つながりあうようなものとして捉える、そうした見方である。悪しき歴史主義者が、「過去」という抽象的な言葉によって一般化してしまうところに、ベンヤミンは具体的で生き生きとしたひとときを見るわけである。

何故ベンヤミンは、そのような見方にこだわるのか。歴史主義的な見方に立てば、現在を歴史の到達点として、そこから遡って過去を合理主義的・目的論的に解釈する見方が強くなる。過去は現在になんらかの係わりのある限り意味を持つものとされ、そうでないものは過渡期における一時的な脱線として切り捨てられてしまう。そのような歴史の見方は、支配階級にとって都合のよい見方である。そして現在の支配階級とは歴史の中で勝利してきたものたちである。歴史に勝利した者が現在の支配者として、過去の歴史を自分たちに都合のよいように書き換えるのだ。

歴史の敗者たちは、一時的な脱線現象のマイナスの当事者として、歴史のプロセスにとっては非本質的でどうでもよいものとして扱われる。そういうものたちは、歴史のプロセスで淘汰され、いまある現在には殆ど痕跡を残さなくなっているから、彼らの立場に立った歴史の見方は当然引き継がれない。彼らは歴史の闇の中に消えてしまっているのだ。だが、果して消えたままにしておいてよいのか、というのがベンヤミンの問題意識としてある。そうして消え去ってしまったもののなかに、いま現にある現在とは違った、別の現在の可能性があったのではないか。そうした可能性を、そのままに打ち捨てておいてよいのか。真の史的唯物論者は、むしろそうした可能性を過去から救い出すことで、現在を見る目に違う光をもたらし、そのことで、全く新しい未来、つまり支配者だけの未来ではなく、被支配者たるプロレタリアートにとって意味のある未来を築いていけるのではないか、そうベンヤミンは考えるわけである。

ベンヤミンは、この辺の問題意識を、「歴史の天使」を論じた断章の中で、次のように展開している。

「『新しい天使』と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見開かれていて、口は開き、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタスロローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積み重ねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組み立てたいのであろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風の勢いが烈しいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天にとどろくばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、<この>強風なのだ」(「歴史の概念について」野村修訳、以下同じ)

ここでベンヤミンが「歴史の天使」といっているのは、史的唯物論の視線を持った歴史家ということになろう。彼の視線は過去に向いている。だがその過去は、歴史主義者がいうような現在につながる意味を持つ事件の連鎖ではなく、カタストローフだ。カタストローフとは、敗者たちの敗れた残骸を意味するのだろう。そのカタストローフが、歴史の天使である史的唯物論者をして、過去の再構築を迫る。彼は、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを組み立てて再構成したいと思うのだが、それはうまくはいかない。何故なら過去から吹き付けてくる強風にあおられて、彼は未来の方向へと吹き飛ばされていくからだ。顔は過去を向いているのに、体は未来に向かって背後へと運ばれていく。というのも、進歩という風が、過ぎ去った過去に拘泥することを許さないからだ。歴史主義にとらわれている限り、それは免れない。

それを免れて、過去を取り戻し、カタストローフから何ものかを再構築できるためには、どうすればよいのか。

それは、時間というものについての考え方を転回させることによってだ、とベンヤミンはいう。歴史主義者たちは、時間を均質で空虚なものというふうに設定するが、そうではなく、時間を断続的でかけがえのない意味に満ちたものとして捉えねばならない。

「歴史という構造物の場を形成するのは、均質で空虚な時間ではなくて、<いま>によって満たされた時間である。だからロベスピエールにとっては、古代ローマは、いまを孕んでいた時間であって、それをかれは、歴史の連続から叩き出して見せたのだ」(同上)

<いま>によって満たされた時間というのは、いま、ここ、にある時間。自分が生きているたった一回限りのかけがいのない時間というほどの意味であろう。こういうことで、均質で空虚、つまりどれとでも相互に取り換えの利くような抽象的な時間ではなく、一回かぎりの意味に満ちた時間というものが取り出されてくる。こうした時間を問題にすることで、歴史は一本調子の連続した進歩ではなく、断続的で行きつ戻りつするような勢力のせめぎ合いの過程なのだという認識が生まれてくる。

このような濃密な時間意識に基づいた歴史の概念について、ベンヤミンは次のように定式化している。

「過渡ではない現在、そのなかで時間が立ち止り停止した現在の概念を、歴史的唯物論者は放棄することはできない。というのは、この概念がほかでもなく、かれがかれ自身の手で歴史を書いている<その>現在という時間を、定義するものだからだ。歴史主義は過去の『永遠の』像を提出するが、歴史的唯物論者は、過去という現にある唯一のものの経験を、提出する。かれは、歴史主義の淫売宿で『むかしむかし』という娼婦とつきあって消耗することは、他人にまかせておく。かれは自己の力量を保ちつつ、歴史の連続を打破しうる男である」(同上)

ベンヤミンのこのような視点は、我々にとって何をもたらすか。少なくとも、歴史を見る視点を複眼化する効果はあるだろう。我々が普通歴史として理解しているのは、ベンヤミンのいうように、支配者の立場から見た勝者の側の歴史解釈である(日本の近代史でいえば、薩長史観ともいうべきものだ)。それに対して、敗者の側から見た歴史解釈もありうる。そういう解釈をとりこみ、歴史を複眼的に見ること、これが可能になるというのが、一つ言えるだろう。

もう一つは、こうすることによって、プロレタリアート階級を進歩史観から解放することだ。プロレタリアートは、世の中の進歩が自分たちの境遇の改善につながるのではないかとの幻想に囚われている。そうした幻想は、ドイツの社会民主党によって植え付けられているのだが、それはプロレタリアートを永遠に奴隷の境遇につなぎとめておくことを意味する。そういってベンヤミンは、ゴータ綱領を批判したマルクスの有名な言葉を引用するのだ。

「自己の労働力以外の財産を所有しない人間は、有産者になりあがった他人たちの、奴隷たらざるをえない」


HOMEベンヤミン次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2014
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである