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ベンヤミンのパサージュ論


ハンナ・アーレントはベンヤミンについて、「生まれながらの文章家であったが、一番やりたがっていたことは完全に引用文だけからなる作品を作ることであった」と書いている(「暗い時代の人々~ベンヤミン」阿部斉訳)。彼の「パサージュ論」は、この願望に対して、完全にではないにしても、ほぼ応えている作品ではないかと思う。一瞥してわかるように、この作品は通常の論文のように、一本筋のとおったストーリーを展開しているのではなく、他人の書いた文章の引用で大部分が形成されているのである。

引用文の間に、ベンヤミン自身の言葉が差し挟まれているが、それは、引用文を解釈したり、引用文同志をつないだりする役割を果しているというより、引用文と全く同じようなレベルで、ある言説を表白しているに過ぎない。それ故、この作品は、引用文とベンヤミン自身の言説からなる断片的な文章を雑然と混在させているといったような印象を与える。だから、ベンヤミン研究家の中には、この作品を、ある程度完成した作品とは考えないで、あるべき完成体に向けての準備的な作業だと解釈する人もいる。

だがやはりこの作品は、完成態とまではいえないまでも、ある程度のまとまりを持った作品だと考えられる。ベンヤミンにもっと時間が残されていて、この作品の完成度を高めるゆとりがあったとしても、その完成態が、現存の作品と決定的に異なった姿をとっただろうとは、考えがたい。現存の作品の構成、その概要として書かれた二つの文章(どちらの題名も「パリ~19世紀の首都」)、また作品への諸論として書かれた小文(「歴史の概念いについて」)を並べてみると、この作品が一定の意図のもとに体系的に構想されていたことがわかるからである。

ベンヤミンがこの作品の執筆にとりかかったのは、1929年のことである。それ以来、1940年に自死するまで、ベンヤミンはこの仕事に従事していた。ホルクハイマーやアドルノと同じように、早めにアメリカに亡命していれば、ベンヤミンはもっと長く生きられたに違いなかっただろうに、彼をヨーロッパにとどめたのは、この作品を書くためだったと思われる。パリにいなければ、ベンヤミンはこの作品を書き続けることが出来なかったのである。しかし、パリがナチスに占領されるに及んで、ベンヤミンは追われるようにしてパリを脱出した。その折に、パリの国立図書館の司書をしていたジョルジュ・バタイユに、この作品の草稿をゆだねた。今日この作品が読者の前にあるのは、こうした経緯を経てのことである。

この作品は、岩波現代文庫版の目次を見てわかるように、二篇の小文からなる概要と、「覚書及び資料」と題する本文からなる。本文は、「Aパサージュ、Bモード」から「r理工科学校」に至る36の部門に別れ、各部門は引用文とベンヤミン自身の短い言説からなっている。そこで、それらの文章がどのような基準に基づいて集められ、並べられているのかが、この作品を評価する上での、当面の問題になる。

それをベンヤミン自身が語ったものとして、二篇の概要と、「歴史の概念」があるわけだが、歴史の概念の意義については別稿で言及したとおりである。

二篇の概要は、1935年にドイツ語で書かれたものと、1939年にフランス語で書かれたものからなる。このうち、35年のものは、最終的には36の部門にわかれるべきところを、とりあえず6の部門に分類して、それぞれの内容を概観している。6の部門とは、「Ⅰフーリエあるいは路次、Ⅱダゲールあるいはパノラマ、Ⅲグランヴィルあるいは万国博覧会、Ⅳルイ・フィリップあるいは室内、Ⅴボードレールあるいはパリの街路、Ⅵオースマンあるいはバリケード」である。これらの分類は、36の部門をさらに大雑把に括ったものとも、また、完成途上における中間的な分類とも考えられるが、1939年の概要においても、この分類は基本的にそのまま採用されているから、おそらくベンヤミンとしては、作品の内容を典型的にあらわしているものを大分類として選んだのだと考えられなくもない。いづれにしても、どの項目においても、19世紀のパリについての言説が溢れている。

そこで、ベンヤミンが、これらの項目に収めた様々な引用文や自分自身の言説をどのような基準で選びあるいは配置したのかが、次の問題になる。

その問題意識に答えているのが、39年の概要だと考えられる。この概要は、序論と結論とふたつの部分で「ファンタスマゴリー」に言及しているが、この「ファンタスマゴリー」という言葉が、この作品全体のキーワードだと考えてよい。ベンヤミンは、まずファンタスマゴリーと言う概念を自分なりに定義し、その概念に当てはまるような言説を、選び取って集めてきた。その上で、ファンタスマゴリーをいくつかの下位概念に区分けし、それぞれに引用文や自分自身の言説を配置した、と考えられる。伝えられるところによれば、ベンヤミンはこれらの下位概念ごとに固有の袋を用意し、それぞれの袋に関連ある文章を投げ入れていたそうである。

そこで、ファンタスマゴリーとは何か、が問題になる。まず、ベンヤミン自身の言葉を聞いてみよう。

「拙著の調査は、文明のこの物体化的な表象によって、われわれが前世紀から受け継いだ新しい生活の諸形態や経済的技術的基盤に立つ新しい創造が、いかにして一つのファンタスマゴリーに突入するかを示したいのである。これらの創造はこの「天啓/照明」をイデオロギー的置換によって理論的に受け入れるだけでなく、感覚的現前の直接性においてこそ受けるのである。これらの創造は、ファンタスマゴリーとして顕在化するのである。鉄骨建築の最初の活用である『パサージュ』はそのように現れるし、娯楽産業との結びつきがはっきりあり方を語る万国博覧会もそのように現れる。同じ類の現象の内に、市場のファンタスマゴリーに身をまかせる遊歩者の体験が挙げられる。人間たちが類型的な様相のもとでしかあらわれない、市場のこういったファンタスマゴリーに対応して、住んでいる部屋に、自らの個人的私生活の痕跡を是非残したいという人間の強烈な傾向によって作られる室内のファンタスマゴリーがある。文明そのもののファンタスマゴリーはといえば、オースマンという代表選手を得て、パリの変貌にその顕在化した表現を見せたのである」(「パリ~19世紀の首都:フランス語草稿」今村・三島ほか訳)

ちょっとわかりづらいところがあるが、要するに現代社会がファンタスマゴリーから形成されているということを言いたいようである。ここでいうファンタスマゴリーとは、幻燈で映し出された巨大な幻影のごときものを指している。なぜその幻影が、現代社会を覆い尽くしているのか。ここにベンヤミンの思想を解く鍵がある。

ファンタスマゴリーとはもともとマルクスが資本論の中で言及した言葉だった。「商品の物神的性格とその秘密」を論じた有名な箇所で、マルクスは人間同士の関係が物と物との関係としてあらわれる現象を物象化という言葉であらわしたわけだが、その際に、物がとる姿をファンタスマゴリーと名づけた。人間同士の関係が物と物との関係として物象化してあらわれると、物の方でもただの物にとどまらず人間的な性格を帯びるようになる。するとある商品は、使用価値や交換価値の担い手であることを超えて独自の価値を帯びるようになる。たとえば流行である。流行は、単に使用価値とか交換価値が齎す現象ではない、物の持つ独自の光りが多くの人々の欲望をひきつけ、誰もかれもがそれを求めるようになるという現象だ。これをマルクスは、実体を持たない幻想的な現象と言う意味で、ファンタスマゴリーと名づけたわけである。

しかしマルクスはファンタスマゴリーについて、ちょっと言及しただけで、深く掘り下げることはしなかった。彼にとっては、資本主義的生産様式の基本問題(交換価値の分析)を明らかにすることが問題なのであって、商品がとる幻想的形態の分析は派生的な問題に過ぎなかったのである。ところがベンヤミンはここに目を付けたわけである。ベンヤミンはマルクスが軽視した商品の幻想的な側面に、資本主義社会における文化現象を分析するについての、独自の手がかりを見出したのだと思われる。




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