知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ベンヤミンのカフカ論


フランツ・カフカが生前に発表した作品は「変身」など少数の短編小説だけだったが、それでも一部の人々の間に熱狂的な支持者を持っていた。彼の死後、いくつかの長編小説を始めとした遺稿が、自分の死後廃棄して欲しいというカフカ自身の遺言に逆らって公表されると、俄然広範囲にわたる反響を引き起こした。それは、カフカ現象ともいうべきもので、カフカは一躍、世紀の大作家の地位に祭り上げられた。しかし、カフカの小説の世界は、あらゆる基準からして、従来の文学の枠から大きく外れていたので、これをどう評価していいのか、尊大な批評家でさえも戸惑うほどであった。そんな戸惑いが交叉するさなか、ベンヤミンは一篇のカフカ論を書いて、それをユダヤ系の雑誌「ユダヤ展望」に発表した(全四章のうち、第一章と第三章のみだったが)。時にカフカの死後10年経った1934年のことであった。

その頃、カフカの作品を神話と関連付けて解釈する批評が主流となっていた。そんな批評の典型として、ベンヤミンはヴィリー・ハースの次のような言葉、「天上の権力、恩寵の領域を・・・かれは偉大な長編『城』で描いた。地下の権力、裁きと劫罰の領域を、かれは劣らず偉大な長編『訴訟』(審判のこと)で描いた。両者の間の地上を・・・現世の運命と、この運命の困難な諸要求とを、かれは第三の長編『アメリカ』に、厳しく練り上げた文体で表出しようと試みた」(「フランツ・カフカ」野村修訳、以下同じ)を引用したうえで、カフカが取り組んだものは、神話にとどまるのではなく、神話以前の太古以来の諸暴力なのだと言った。

ベンヤミンは、あいかわらず比喩的な言い方に終始しているので、この太古以来の神話的暴力というものがどのようなものなのか、明確には伝わってこないのだが、テクストの行間からはそれが、ユダヤ教と密接に結びついているらしいことが伝わってくる。つまりベンヤミンはカフカを、ユダヤ思想の伝達者として捉えているフシがある。

ユダヤ思想の中核ともいえる教えは、エホバによって人類に示された。人類はそれを永劫に受け継いでいかねばならぬのだが、傲慢にも、それを忘却し去ろうとした。つまり、エホバの教えを記憶から抹消しようとした。そこに人類の悲惨の根源がある。この悲惨から逃れるには、人類はエホバの教えを忘却から救わねばならない。カフカがしたことは、エホバの教えを忘却から救い出そうとしたことなのだ、とベンヤミンは言いたいようなのである。

「忘却されているものは、例外なく、太古以来の忘却されたものらと混じりあい、それらと数限りない曖昧な婚姻を、相手を変えながら結んでは、くりかえし新たな奇形を産みだしてゆく。カフカの物語では、この忘却という容器から、無尽蔵の中間的世界が姿を現してくる」(同上)

仮にベンヤミンが言うとおりだとしても、それだけでは、カフカの世界を彩っている独特な雰囲気が説明しきれるとは思えない、そう考えるのは筆者のみではあるまい。カフカの世界では、人間が突然動物に変身したり、理由も告げられずに有罪判決を受けた挙句、人格を持っているとは思えないような男たちによって刑を執行されたりする。また、城に赴いた測量技師は、いつまで待っても仕事の指示を得られずに、永遠に時を浪費しているかのような感情を持つに至る。こうしたことがらは、太古以来の諸暴力というような抽象的な「用語」で、果して的確に説明できるのか。むしろ、20世紀という現代社会に固有の現象として見るべきではないのか。そんな疑問も持ち上るというものであろう。

カフカが生きた20世紀初頭という時代は、戦争を始めとした暴力が蔓延し、人間に関する伝統的な見方が揺らいでいた時代である。カフカはそれを敏感に感じ取って、一連の小説に反映させたのではないか。だからカフカの問題意識は、太古の時代に向けられているというより、彼の同時代に向けられているのではないのか。暴力がものをいう、というすさまじい時代、それが彼の同時代に対する根本的な受け止め方であった。それをカフカは正面から受け止めて、同時代の不条理性を告発したのではないか、そんな風にも解釈できそうな気がする。

ベンヤミン自身にも、そんなふうに考えを改めた形跡が見られる。1938年に友人ショーレム宛に書いた手紙の中で、ベンヤミンは次のように書いている。

「カフカの作品は、互いに遠く離れた二つの焦点を持つ、ひとつの楕円である。その一方の焦点は、神秘的な経験(何よりも伝承されてきたものにかかわる経験)によって、他方の焦点は、現代の大都市の人間の経験によって、規定されている」(「カフカについてのショーレム宛の手紙」野村修訳)

つまりベンヤミンは、カフカが太古とつながりあう神秘的な経験とともに、現代の大都市の人間の経験にも焦点を当てていると言っているわけである。しかし、二つの焦点を持つ楕円と言いながら、それらの焦点がどのような関わり合いをしているのかは、そこでは述べられていない。二つの焦点を持つ楕円は、比喩として語られているばかりで、相互の関係性の実態は不明なのだ。もっとも、比喩的に言及されている楕円自体は、形式的な含意以外の何ものをも含んでいないのではあるが。

それでもベンヤミンは、カフカが現代国家の市民が官僚機構の手に引き渡されていると見ていた、と解釈する。現代社会の不条理は、すべて官僚機構の暴力によってもたらされる。官僚機構によってからめ捕られた市民には、自由に息を吸う空間も狭まってきている。それがカフカの認識の根底にある見方であった。そうベンヤミンが解釈しているところは興味深い。




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