知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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プルーストとボードレール:ベンヤミンのオーラ


プルーストとボードレールの間にある近縁性については、それをもっとも意識していたプルースト自身を除けば、ヴァルター・ベンヤミンがもっともよく気づいていたといえる。ベンヤミンはこの二人の作品をドイツ語に翻訳しながら、彼らの間にある親近性を通じて、芸術に対するひとつの見方を形成していった。

ベンヤミンはその見方を、オーラという概念で表現した。オーラとは経験の奥深くで息づいている何かを表す言葉であり、意識的な想念の中ではなく、無意識の記憶の底に沈殿しているような何かである。それはあるとき、ふとした匂いが元になって、突然浮かび上がってくる経験の残光であり、言葉では名状しがたいもの、意識的な記憶の対象とは決してならない何かである。

ベンヤミンはこの概念を、ベルグソンの持続の概念を借りて説明している。ベルグソンにとって純粋持続とは、人間の原体験そのものとパラレルである。それは知的操作によって対象化される以前の、生の動きそのもの、生きることのありようそのものと一致している。これが意識のもとにもたらされ、そこに分析の手が加わるとき、持続は切断され、そこに息づいていたみずみずしいものは、干からびた見本のようなものに成り代わってしまう。

オーラとは、持続としての人間の原経験が放つ光なのだ。

ボードレールも、またボードレールの申し子とも言えるプルーストも、この人間の原経験が放つオーラにこだわり続けた作家だった。プルーストの長大な作品「失われたときを求めて」は、無意識の底から、かつて経験したいとしい匂いを探し出し、それらをつむぎ合わせることで、人間の命の営みをあからさまに再現しようとする試みだった。

そのプルーストは、ボードレールを次のように評している。「ボードレールにおいては、時間が奇妙に崩壊している。それは実はほんの数日からなっているにすぎない。しかしその数日は重大な数日である。」

ボードレールにおいて崩壊している時間とは、生きた持続から切り取られた時間、知的な認識の対象となるような時間だ。いってみれば近代的な科学の枠組みとしての時間だ。ボードレールはそのような時間に敬意をはらわない。彼が取り上げるものは、あらゆる時間から超脱した原経験であり、したがってそれ自体で完結した出来事である。それはほかの出来事と因果や運動の関係で結ばれているわけではない。それは時間から屹立している。

ボードレールがいうコレスポンダンスとは、このように時間から屹立した出来事がかなでる交響曲のようなものである。そこに含まれている要素は知的な操作によって把握されるような対象ではなく、人間の原経験がかもしだす感覚である。それは追憶という形で、人の感性に直接甦ってくる。歴史的なデータとしてではなく、前世のデータとして。

ボードレールにとって前世とは、文字通りの前世をも含む、自分の意識の枠組みを超えた世界なのだ。だから無意識のまま自己の心のうちに沈殿している世界も前世という言葉で捉えることができたのだ。

前世は当然非歴史的である。そこに時間が流れているとしたら、それは祝祭の時間だ。ボードレールにおけるオーラは、この祝祭から発せられる躍動の輝きなのである。

だがボードレールが生きた時代のパリにあっては、このオーラに直に接し、それを生活の中で享受することは困難になっていた。むしろ日常の経験は、ことごとくオーラを破壊するような方向に動いていた。

そのオーラを破壊する力を、ボードレールは衝撃と呼んだ。ボードレールは群集の中に自ら進んで入り込んでいき、彼らのエネルギーから、生きることから発せられるオーラを汲み取ろうとしたが、衝撃がそれを阻む。そこでボードレールはとたんに不機嫌になり、侮蔑の一瞥をくれながら、群衆から離れていくのだ。

ボードレールの詩業はこの衝撃との戦いの記録であり、かつまたわずかに届きえたオーラの輝きを、言葉の上に定着させようとした試みだったといえる。




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