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内田樹、松下正己「映画は死んだ」


内田樹と松下正己は中学生のときに不思議な縁で結びついて以来、主に映画を仲立ちとして付き合ってきたそうだ。しかし二人の映画についての趣味は全く異なっていたらしい。にもかかわらず、共同して映画についての本を書くこととなった。この本はその共同の成果というわけである。内田が前書で言っている通り、松下のものは読むと肩こりする体のものであり、内田のものは例によって肩がこらない。

内田は、この本が目指しているのは「映画批評」だという。いま巷で流されている「映画評論」なるものは、単なる印象批評に過ぎない。印象批評を批評ということは出来ない。「映画について『すてき』とか『おしゃれ』とか『小粋』とか形容詞を羅列するだけでは批評にはならない。ここには、なぜその作品が秀逸であるのかを説明できる『論理』への志向が致命的に欠落しているからだ・・・『批評』であるためには、そこに映画というメディアの構造そのものを解明し、『映画の科学』を成り立たせようとする意思がなければならない」と内田は言うのである。

内田は、映画評論について言ったことは文芸評論にも当てはまるという。文芸評論の多くは読むに値しないが、その理由は、「それが『文学』について、この印象批評と同じように『無反省』だからである」と言うのである。

文芸評論のことはさておいて、内田らがこの本のなかで試みたことは、映画を「科学的に」論じるということだったようだ。内田のいう「科学的に」がどのような意味を内包しているのか、前書からはわからないので、読者は本文からそれを読み取らねばならない。すると、「増殖する物語」とか、「ジェンダー・ハイブリッド・モンスター」とか、「リュック・ベッソンの冥界」とか、「映画的身体論」とかいった小見出しから、どうも内田は映画を、ある外的なコードに照らし合わせながら論じようとしているという印象が伝わってくる。その外的なコードとは、どうやら同時代に流行している思想的な風潮のようである。筆者はそこに、内田が取り組んでいる現代思想のこだまのようなものを感じた。

つまり、この本のなかで、少なくとも内田が目指したのは、映画を現代思想のいくつかのキー概念を用いながら説明しようということらしい。内田がこの本の中で持ち出しているキー概念は多岐にわたるが、なかでもスラヴォイ・ジジェクから借りてきたものが大きな役割を果たしている。ジジェクはマルクスとラカンを接続しようと試みたことで知られているが、映画について多くの発言をしているので、内田としては、自分の映画批評に引用するには便利なツールになりうると思えたのだろう。

ジジェクは、ラカン流の精神分析用語、たとえば「母なる超自我」を用いてヒッチコックの映画を分析し、また「欲望のパラドックス」というような言葉を駆使して多くの娯楽映画を見事に分析している。ジジェクのそうした仕事には、ある明確な基準にもとづいて映画についての仮説を立て、その仮説の実現された例としてさまざまな映画を分析して見せるという側面があり、その面ではたしかに「科学的」であると言えよう。

内田は一方で、自分自身の自前のツールも披露する。たとえば彼が得意のアンチ・フェミニズムの論理だ。内田はその論理を用いて、映画「エイリアン」シリーズが描いているのは、逆立ちしたフェミニズムだということを、実に論理的に、つまり科学的に、分析して見せてくれる。

表題の「映画は死んだ」が、どういうわけで付けられたのか、よくわからない。どうもこの言葉は、松下の提案になるようだが、松下自身はこの言葉の意味を、有意的に説明していない。自分が担当した本文の最後の部分で、「二十世紀の終焉と共に、映画は死のうとしている。映画万歳」と書いているだけである。死につつあることがなぜ万歳になるのか、それもまったくわからない




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