知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板




笠井潔「8・15と3・11」


笠井潔はかなり徹底した戦後日本批判論者のようだ。彼が戦後日本を批判する口調は、批判の域を超えて罵倒に近い。こんな日本に、一人の日本人として生きているのが恥ずかしい、というか忌々しい、そんな鬱憤が彼の文章からは伝わってくる。そこは、近年新たな視点から戦後日本を批判している白井聡より、ずっとラディカルだと言えよう。

戦後の日本人の堕落振りは、日本人が8・15を徹底的に考えてこなかったことの結果だ、と笠井は言う。敗戦の事実をそれとして受け止めず、終戦という言葉でごまかして、曖昧にやり過ごしてきた。そのため、過去をきちんと反省して、そこから未来への教訓を引き出すという、当然のことを怠ってきた。こうしたいい加減な態度が、3・11を人災として引き起こした。笠井によれば、3・11は8・15の繰り返しなのである。

笠井は、日本人が8・15と3・11を繰り返したことの背景には、日本人特有の処世法が働いていたと考える。笠井は日本人の生き方を動かしているものをニッポン・イデオロギーとして捉える。これは、「権威を疑問視しない反射的な従順性、集団主義、島国的閉鎖性など。あるいは目先の必要に目を奪われた泥縄式の発想、あとは野となれ式の無責任」などを特徴とし、「空気の支配と歴史意識の欠落を二本の柱とする・・・日本に固有の自己欺瞞的な精神構造」と定義される。このニッポン・イデオロギーを清算しない限り、日本は第三の8・15を迎えることになろう、と笠井は言うのである。

それゆえこの本の使命は、ニッポン・イデオロギーを分析し、それからの脱出の方向を探ることにある。

ニッポン・イデオロギーの分析に当たっては、笠井は、丸山真男、吉本隆明、山本七平らによる日本文化論を援用しながら、その無責任性に焦点を当てて論じており、あまり目新しい視点はないといってよい。ひとつユニークなところがあるとすれば、戦後まで生き残ったニッポン・イデオロギーが、自民党タカ派の改憲再軍備論者たちのみならず、社会党の護憲非武装論をも貫いていると見ている点であろう。これらはどちらも、歴史意識を欠いたニッポン・イデオロギーの徒だったにすぎないというわけである。

ニッポン・イデオロギーが戦後に演じた最大の役割は、対米従属の合理化だと笠井は見ているようである。アメリカに対する笠井の感情は憎悪といってよいもので、そのアメリカに盲目的に追従する日本の保守勢力をも嫌悪しているように見える。もっとも笠井のアメリカ批判には一定の理由がある。笠井にとって今日のアメリカは、力によって世界支配を貫徹しようとする暴力的な存在であり、日本はその暴力の片棒を担ぐことで、21世紀の世界に安定した地歩を築けないでいると笠井は見ている。これはもっともな見方だと思う。19世紀的な国際法秩序を無視して、力による支配を追及してきたのはほかならぬアメリカであり、その点ではアメリカこそ、もっとも暴力的な存在なのだという笠井の議論には、うなずけるところが多い。

ニッポン・イデオロギーが克服できたとして、その先には何があると考えられるだろうか。これについて笠井は、ユダヤ・キリスト教的な欧米流の世界観から日本が解放されることがひとつの条件だと考えているようだが、かといって、古来日本的とされるものへの安易な回帰にも懐疑的である。そうした日本的なものへの回帰の一例として、笠井は中沢新一をとりあげ、日本古来のアニミズムへの回帰をすすめる中沢を、歴史意識に欠けた空疎な議論をするものだと言って罵っている。だが、自分はどのような方向を出すのか、といえば、あまりたいした智恵は浮かばないようだ。

笠井があげるのは、親鸞とか鈴木大拙の思想である。こうした思想にこそ、ユダヤ・キリスト教的世界観ともニッポン・イデオロギーとも異なった、日本独自のすばらしさがある。その思想の系譜には、幸徳秋水や大杉栄がおり、また"68"の戦後ラディカリズムがあった。それらの思想を踏まえることで、日本の未来が確固としたものとして構想できるのではないか、そんなふうに笠井は考えているようである。"68"の生き残りの一人である笠井らしい考え方だ。




HOME壺齋書評次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2016
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである