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ドストエフスキーを読む 壺齋散人の文学批評


ドストエフスキーほど多面的でかつ豊饒な作品世界を創造した作家はいないだろう。しかも同時代のロシア社会やそこに生きるロシア人の人物像を深刻に分析して見せた。そういう点では、ドストエフスキーの作品世界は、ロシアについての百科全書的な情報の宝庫である。したがって、ドストエフスキーの小説を読めば、かれが生きた時代のロシアの雰囲気を疑似体験することができる。その体験は、政治的なものであったり、また、ロシア人の考え方の底にある傾向を感じ取ることであったり、社会的・精神的なあらゆる領域にわたる。ドストエフスキーほど政治性を感じさせながら、しかも個人の心理的な描写にたけた作家はいないのである。そういうわけだから、ドストエフスキーについての研究は、非常に多彩な角度からなされている。かれの政治的な反動性に焦点をあてたり、その反ユダヤ主義的傾向をけしからんと憤慨してみせたり、また、登場人物に精神的な病理現象を感じさせるものを多いことを理由に作家自身の精神病理を指摘してみせたり、あるいはバフチーンのように、ドストエフスキーの作品世界がもつ独特の豊饒性に注目したりと、色々な角度からの研究が並立してきた。この小論では、ドストエフスキーの作品世界がもっているあらゆる要素を網羅的に取り上げるわけにはいなかいので、いくつかの要素に注目するにとどめたい。

作家には生涯を通じて変わらぬ傾向性があり、それは処女作においてもれなく発揮されるという説がある。かなり蓋然性の高い見方である。その見方をドストエフスキーにもあてはめて、処女作において現れている傾向性のようなものをまず検討してみよう。ドストエフスキーの処女作は、1846年24歳の時に発表した「貧しき人々」である。これは不幸な境遇にある男女の往復書簡という体裁をとったものだが、そこに早くもドストエフスキーの特徴が現われている。まずはその独特の語り口である。この作品は、何の前書きもなくいきなり男女の間で往復された手紙を載せるというかたちをとっている。ふつう、小説には、小説全体の進行役を務めるものが小説の語り手として登場し、その語り手の視点から出来事が語られるという体裁をとるものである。ところがこの小説には、そういう語り手が出てこない。男女の間で交わされた手紙が、何の前置きもなくいきなり提示されるのだ。だから読者は、他人の手紙を盗み見たような気持になる。手紙であるから、そこに書かれているのは極めて個人的な事柄とか思いであって、したがって客観的な視点はいっさいない。その往復書簡の書き手を仮に小説の登場人物に擬せば、かれらは自分勝手に言いたいことを言っており、それを第三者の視点から整理するという余地はまったくない。かれらは言いっぱなしなのである。それでいて、小説全体としてのまとまりは感じさせる。このように、小説の進行を、第三者の視点から整理するのではなく、登場人物に勝手にしゃべらせながら、しかもそこに独特の調和が生まれるという効果を、バフチーンはポリフォニーと呼んだ。そのポリフォニックな語り方は、以後ドストエフスキーの小説世界の基本的な特徴となる。

「貧しき人々」の第二の特徴は、とくにジェーヴシキンの造形に著しく見られる精神的な異常性である。ジェーヴシキンの言動からわれわれは統合失調症の症状を想起する。ドストエフスキーの小説には、そうした精神病理を感じさせる人物像が多く出てくる。「貧しき人々」の直後に書かれた「二重人格」は離人症の患者を主人公にしているし、「悪霊」の主人公の一人スタヴローギンにも精神的な異常性がある。「カラマーゾフの兄弟」のイヴァン・カラマーゾフにも精神的な異常性が認められる。「白痴」のムイシュキン公爵は癲癇とある種の精神薄弱を想起させ、それ以前の「虐げられた人々」にも精神薄弱の人物が出てくる。精神薄弱はかならずしも精神病理とはいえないが、ドストエフスキーの時代のロシアでは、精神病理の範疇に含まれていたのではないか。ドストエフスキーの小説世界に、そうした精神病理を感じさせる人物が多く出てくることを理由に、中村健之助はドストエフスキー自身にも精神病理の傾向があり、それを作品世界のなかで自己分析したというような見方を提示している。

ドストエフスキーの小説世界には、著しく政治性を感じさせるところが指摘されるが、そうした政治的性格は、宗教的な性格とともに、この処女作には指摘できない。かれが小説の中で政治にこだわるようになるのは、「死の家の記録」以後である。「死の家の記録」は、ドストエフスキー自身の体験から生まれたものだ。ドストエフスキーは、若いころに社会主義のサークルに入り、それがもとで1849年に逮捕され、一旦死刑判決を受けながらも、減刑されてシベリア流刑になった経験がある。その経験をもとに、「死の家の記録」が書かれた。そこでは政治性はまだ鋭い形では示されてはいないが、ロシアの自由主義とか社会主義思想に一定の距離をおくような姿勢は見られる。その姿勢はやがて、自由思想への嫌悪とロシア主義の擁護という方向をとるようになる。「罪と罰」以降の長編小説群には、そうした形の政治性を指摘することができる。

宗教的な性格については、年をとるにしたがって強まっていったということができよう。ドストエフスキーの面白いところは、ユロージヴィと呼ばれる宗教的奇人に大きな関心を払っていることだ。そうした奇人像は「カラマーゾフの兄弟」のなかのゾシマ長老において全面的な開花を見るが、それ以前の小説においても、折に触れて言及している。ドストエフスキー自身は、ユロージヴィをロシア正教の理想的な聖人像として捉えていたフシがある。ドストエフスキーは、ロシア人をある種の野蛮人と見ているところがあるが、一方では、その熱情的な宗教意識に同感しているところもあり、その同感がユロージヴィに向けられたのであろう。

よくいわれるドストエフスキーの反ユダヤ主義については、たしかに晩年の雑文の中でそういう主張を展開はしたが、小説世界についていえば、ユダヤ人ばかりを悪く書いているわけではない。かれの小説世界の中では、ユダヤ人のほかに、ポーランド人、ドイツ人、フランス人、フィンランド人などが出てきて、そのいずれについてもドストエフスキーは揶揄的な書き方をしている。ということは、ドストエフスキーには外国人嫌いの排外的な傾向があって、それがたまたまユダヤ人にも向けられたと考えるのが自然であろう。

ドストエフスキーの小説世界には、多くのユニークな女性たちが登場する。弱い性格の女性から、強い性格の女性、尊大な性格の女性や慈悲深い性格の女性など、実に多彩な女性たちを生き生きとしたタッチで描いている。ドストエフスキーほど、女性に重要な役割を持たせた作家はほかにないと言ってよいほどである。「罪と罰」などは、ラスコーリニコフよりもソーニャのほうが大きな存在感を発揮しているし、「未成年」のメーンテーマは女同士の確執といってよい。「白痴」の中の二人の女性もムイシュキン公爵に劣らぬ存在感があるし、「悪霊」ではワルワーラ主人が小説の進行役を担っているほどである。かようにドストエフスキーは、女性に決定的な役割をあてはめている。

ドストエフスキーはまた、多くの悪党たちを小説世界に登場させた。「罪と罰」には女を食い物にする悪党が出てくるし、だいいちラスコーリニコフ自身が悪党のようなものである。「白痴」のロゴージンには可愛いところもあるが、「悪霊」のピョートル・ベルホーヴェンスキーは悪党そのものである。「未成年」のヴェルシーロフにも悪党の要素があり、「カラマーゾフの兄弟」では長男のドミートリーに悪党らしい要素を指摘することができる。ロシアの男には悪党らしいところがかならず含まれていると考えたからこそ、ドストエフスキーはそうした悪党たちを多く登場させたのではないか。

そのほかまだまだ、ドストエフスキーのドストエフスキーらしい特徴を指摘することができるのだが、ここいらで切り上げたいと思う。以下、個別の作品に即しながら、ドストエフスキーの小説世界の特徴について腑分けしていきたいと思う。


貧しき人びと:ドストエフスキーの処女作

「貧しき人びと」のロシア文学談義

ドストエフスキー「二重人格」を読む

「二重人格」におけるドストエフスキーの語り口

ドストエフスキー「死の家の記録」を読む

ロシアの監獄事情と囚人気質:ドストエフスキー「死の家の記録」

笞刑と足枷:ドストエフスキー「死の家の記録」

抗議と逃亡:ドストエフスキー「死の家の記録」

ドストエフスキー「虐げられた人々」を読む

イフメーネフ老夫妻とナターシャ:ドストエフスキー「虐げられた人々」

小悪党の父親と精神薄弱の息子:ドストエフスキー「虐げられた人々」

虐げられた少女ネリー:ドストエフスキー「虐げられた人々」

ドストエフスキー「地下室の手記」を読む

絶望する娼婦リーザ:ドストエフスキー「地下生活者の手記」


ドストエフスキーの小説「罪と罰」を読む

ラスコーリニコフとソーニャ:ドストエフスキー「罪と罰」を読む

ラスコーリニコフとポルフィーリー・ペトローヴィチの対決:ドストエフスキー「罪と罰」を読む

ルージンとスヴィドリガイロフ:ドストエフスキー「罪と罰」から

ロシアの下層社会:ドストエフスキー「罪と罰」から

ラスコーリニコフのペテルブルグ:ドストエフスキー「罪と罰」


ドストエフスキーの小説「白痴」を読む

ムイシュキン公爵の人間像:ドストエフスキー「白痴」から

謎の女ナスターシャ・フィリッポヴナ:ドストエフスキーの小説「白痴」から

アグラーヤ・イヴァーノヴナと女の意地:ドストエフスイー「白痴」から

イポリートと自由主義者たち ドストエフスキー「白痴」から

ムイシュキン公爵のロシア主義 ドストエフスキーの小説「白痴」から


ドストエフスキー「永遠の夫」を読む

寝取られ亭主の悲哀:ドストエフスキー「永遠の夫」


ドストエフスキーの小説「悪霊」を読む

小説「悪霊」の語り口 ドストエフスキーの世界

ステパン先生とワルワーラ夫人:ドストエフスキー「悪霊」を読む

ニコライ・スタヴローギンとは何者か:ドストエフスキー「悪霊」を読む

ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーと革命運動組織:ドストエフスキー「悪霊」を読む

シャートフの死:ドストエフスキー「悪霊」を読む

キリーロフの自殺:ドストエフスキー「悪霊」を読む

レビャートキンとレビャートキナ嬢:ドストエフスキー「悪霊」を読む

スタヴローギンの告白:ドストエフスキー「悪霊」を読む


中村健之介「永遠のドストエフスキー」を読む

ドストエフスキーの反ユダヤ主義:中村健之介「永遠のドストエフスキー」

江川卓「ドストエフスキー」を読む




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