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ドストエフスキーの小説「白痴」を読む


「白痴」は、ドストエフスキーのいわゆる五大小説のうち、「罪と罰」に続く二作目の作品。「罪と罰」でほぼ確立した客観描写の手法を一層大規模に展開したものだ。客観描写とは、いささか便宜的な概念で、登場人物の心理や行動を、第三者の視点から客観的に描写するというものだ。初期のドストエフスキーは、主人公の独白であったり、あるいは特定の人物になりかわっての第三者の説明であったり、要するに特定の人物の視点からする語りという点で、主観描写といってよかった。そうした主観的な方法を棚に上げて、あくまでも多数の登場人物の心理や行動を第三者の視点から客観的に描写するという方法をドストエフスキーは「罪と罰」において確立したのだった。「白痴」においては、その方法をより一層大規模に展開している。そういう点では、「悪霊」以下の晩年の大作群への橋渡しともいえる。

筋書きは比較的単純である。だが登場人物はやたらに多く、しかもそれらの人物がそれぞれ勝手に自己主張をする。一応ムイシュキン公爵という人物を主人公に設定してはいるが、かれの動きだけが取り上げられているわけではなく、他の数名の人物にも、ムイシュキン公爵に劣らない役割があてがわれている。ムイシュキン公爵は一時小説の流れから消えてしまうこともあるくらいだ。かれの不在中は、他の人物が小説の主人公をつとめ、その視点から物語の進行する様子が語られることもある。それら人物は、それぞれユニークな思想や行動様式をもっているので、かれらに即して語られる部分は、相互に矛盾反発することもある。要するにこの小説の中では、ドストエフスキーは多くの登場人物にそれそれ勝手な言動をさせて、それら相互の矛盾とか齟齬といったものを楽しんでいる様子をうかがうことができるほどなのである。

単純ながら、筋書きらしいものはある。でなければ小説として成立しない。それをごく簡単にいえば、一青年のイニシエーションということになろう。その青年ムイシュキン公爵が、青春の門出にあたってロシア社会に立ち向かい、それの課す試練に直面する。それを乗り越えることではじめて、かれは一人前のロシア人としてロシア社会に受け入れられる。ところが、かれはそれに失敗する。つまりイニシエーションを無事くぐりぬけることが出来なかったのだ。その理由はいろいろある。かれの本来天真爛漫な性格が社会の過酷さに耐えられなかったということもあるが、それ以上に異性に対してどう振舞えばよいのか、まったく理解できていないこともある。かれについてまわる「白痴」という烙印や、時折見舞われる癲癇の発作が、かれの一人前の人間としての評判をいたくそこなうということはあったが、結局かれがイニシエーションの儀礼に失敗した理由は、人間として未熟過ぎたということに尽きるのではないか。

イニシエーションというのは、そのタイミングや規模においてさまざまな違いこそあれ、一人の人間が一人前の人間として社会に受け入れられるためには不可避の儀礼である。それに失敗することは、彼が属すべき社会から疎外されるということを意味する。じっさい、この小説の主人公ムイシュキン公爵は、ロシア社会がかれに課すイニシエーションの課題を適切にこなすことが出来なかったために、ロシア社会から放逐され、かれがそこからやってきたスイスの精神病院に送り返されてしまうのである。

この小説は、ムイシュキン公爵が少年時代を過ごしたスイスの精神病院を抜け出し、生まれ故郷のロシアにやってくることから始まる。そして、恋愛もどきの体験を含めた様々な体験をした挙句、自分に迫ってくる事態の重みに耐えきれず、ついに精神的な破綻に追い込まれるまでの過程を描く。その間の時間の経過はそんなに長いものではない。長くてもせいぜい一年くらいであろう。その短い期間にムイシュキン公爵は様々な人々と出会い、かれらとのかかわりを通じて、ロシア社会で生きていくための基本的な作法を学ぶように期待される。人のいいムイシュキン公爵は誰からも愛され、イニシエーションは順調に進むかと思われるのだが、かれにとって最大の試練は、異性との関係をそつなくこなすことであって、それに失敗したことがかれにとっては命取りになるのである。

ムイシュキン公爵は、二人の美しい女性となみなみならぬ関係になる。それにしても、かれの女性との関係は異様なものだ。かれはその二人を平等に愛してしまい、どちらか一方だけを愛するということができない。だが、そういう愛し方は、ロシア社会にとってはスキャンダルそのものなので、かれはそのロシア社会から排除される羽目になるのである。ムイシュキン公爵は、女性関係にかぎらず、色々な面でユニークである。かれの人間像は別途稿を改めて解明したいと思う。

女性関係以外にも、読ませどころは多々ある。この小説は、ムイシュキン公爵がペテルブルグへ向かう汽車の中でロゴージンと出会い、最後はロゴージンと共にある女性(ナスターシャ・フィリッポヴナ)の死を見届けるところで終わるのだが、そのロゴージンはロシア的なやくざ気質を体現した人物として描かれている。そのロゴージンが、なぜナスターシャを殺したのか、それは謎のままに残される。それまでは、人物の心の襞にたちいった描写に心掛けていたドストエフスキーが、この最後の修羅場の描写については及び腰になっているのである。

ロゴージンとのかかわりの延長で、レーベジェフといった胡散臭い男や、イポリートに代表される当代の自由思想家たち、そしてロシア社会を実質的に動かしている地主とか軍人・役人の類が出てくる。ロシアはまだ半封建社会なので、近代的なビジネスに従事する人間はいないに等しい。人間らしい尊厳を感じさせるのは、地主とか軍人・役人といったたぐいの連中なのである。そんななかで、ロゴージンとかイポリートといった人物は、いわば社会のはみ出し者である。そういうはみ出し者に重大な役割を与えているこの小説は、ロシア文学の伝統からかなり外れている。

ともあれこの小説の最大の特徴は、大勢の登場人物がそれぞれに個性を発揮して、勝手放題なことを言ったりしたりするところにある。登場人物たちが互いに勝手なことを言いながら、てんでばらばらにならずに、ある種のハーモニーのような響きを奏でるのを、バフチンはポリフォニーと呼んだ。この小説はそのポリフォニーの最初の大規模な実験と言ってよいのではないか。


ムイシュキン公爵の人間像:ドストエフスキー「白痴」から

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