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侍女たち:フーコーのベラスケス解釈


フーコーの著作「言葉と物」は全十章から構成されているが、その冒頭の章は「侍女たち」と題して、スペインの画家ベラスケスの有名な絵を解読するのに費やされている。

この絵の中には、ほぼ中央に王女マルガリータが、その周りには侍女や侍従、そして当時有名だった宮廷道化や小人が描かれているので、これは宮廷画家であるベラスケスが、命じられて王女の肖像を描いたのだと思える。宮廷画家というのは、王やその家族の肖像を描くのが仕事なわけだから、ベラスケスが王女とその侍女たちを描いたのはごく自然な行為であるわけだ。

しかし、よく見ると、この絵には不自然なところがある。画面左端には巨大なキャンバスの裏面が見えており、その表面の先のほう、マルガリータや次女のいる場所よりもさらに後ろのほうに、ベラスケスと思われる一人の画家が、キャンバスの手前、つまりこの絵の観客のいる方向を見つめているのだ。

もしこの絵のテーマが王女マルガリータと侍女たちを描くことであったとしたら、画家が絵の中に登場するのは不自然である。というのも、こうした絵を描く場合、画家は、絵の外側にいて、そこから王女らを眺めねばならない立場にある。画家がモデルである王女たちと同じ平面に共存することはありえないのだ。

もう一つ不思議なことがある。絵の中の画家が見つめているらしいものを、マルガリータもまた見ているらしいことである。マルガリータのほかに、道化もまたその方向を見ているようだし、画面の奥で、階段に片足をかけた男もまた、その方向を見渡しているようにも見える。この男の場合には、王女や画家のいる部屋の空間全体を眺めていると解釈できないわけではないが、その視線が、画面の手前の方向に向かっていることは間違いない。

こんなことから、この絵を見るものは、画家や王女の視線の先、ということは観客自身が立っているその場所の方向に、彼らの注意を引いている対象があるのだと推論できる。

そこで、この絵の中には、その場所に誰がいるのか、推測の手がかりになるような要素があることに、観客は気づかされる。画面の奥の壁面にいくつかの絵がかけられているが、そのうちの一枚がひときわ明るくなっている。これは実は鏡であって、その鏡に映っている一組の男女こそ、この絵の中の人物たちの視線の先にある当の対象なのだということに気づかされるのだ。

鏡に映ったこの一組の男女こそ、王と王妃なのである。王と王妃は画面の外側にいてポーズをとっているのだろう。それを画面の中にいるベラスケスが、やはり画面に半分姿を現しているキャンバスの上に定着させている。この絵は、折しも画家の前でポーズを取っている王と王妃の姿を、王女マルガリータや侍女たちが見守っているところを描いているわけだ。描かれている当のモデルである王と王妃は、画面の中では、奥の鏡の中に、間接的に現れているに過ぎないが、絵全体は、彼らのいる方向に向かって、直接的に視線を延ばしている。通常絵を見る際の視点と言うものは、絵の外部にあって、そこから絵の内部へと視線が向かうものなのだが、この絵ではそれが逆になって、絵の内部から絵の外部へと視線が向かっているわけである。

この絵をめぐるフーコーの解釈は、こんな風に進んでいく。フーコーの言い方はいかにももったいぶっているので、読者は時折イライラさせられながらフーコーの推論に付き合わされることになるわけだが、そんな推論が、この「言葉と物」という著作にとって、どのような意味を帯びているのか、読者にはいまひとつ納得できない部分が残るだろう。

この著作の第二章以降でフーコーが展開しているのは、古典主義時代以降のエピステーメーについての議論なのだが、それとベラスケスのこの絵とが、どのようなかかわりがあるのか。また、この部分(第一章)で展開されている議論が、それ以降に展開されることとなる議論とどのようなつながりを有しているのか、読者にとっては疑問だろう。

この疑問の前半の部分については、ベラスケスがバロック時代の作家だったということが、疑問解決の一つの糸口になるだろう。美術史上バロック時代というのは、ルネサンスと古典主義時代に挟まれた過渡期の時代である。これは、フーコーのエピステーメー論の議論では、中世・ルネサンスのエピステーメーから古典主義時代のエピステーメーへの転換期ということになる。フーコーはだから、ベラスケスのこの絵の中に、そうした転換期の特徴を見出し、その特徴の解明を足がかりにして、本題である古典主義時代のエピステーメーの議論へと進む心つもりだったのではないか(これは先の疑問の後半部分への答になる)。

フーコーがこの章(第一章)で展開している議論は、単純化して言えば、視線の複数性ということだろう。この絵には、絵の内部から絵の外部に向かっている視線と、絵の外部から絵の内部に向かっている視線とがあって、この二つが複雑に交差している。普通、絵というものは、絵の外部にいる画家の視点を中心にして、そこから一つの方角へと向かう視線に貫かれているものだが、この絵の中では、そうした特権的な視点である画家の視点が絵の内部にあるために、通常の絵の受け止め方ができなくなる。だから、この絵を見た人は、これを常識からはずれた奇妙な絵というふうに受け取りたくなる。しかし、それは、現代に支配的なエピステーメーに依拠するからそういうことになるわけで、ベラスケスにとっては、すこしも不自然ではなかった。彼にとって、絵を構成する視点は、一つである必要はなかったのである。

というより、視点そのものにこだわることに意味がない。視点を考慮からはずした、純粋な表象を楽しむということも、行き方としてありうるのだ、ということをベラスケスは、この絵を通じて主張している。また、そうした主張は、表象の体系化にこだわる古典主義時代のエピステーメーの特徴でもあったから、べラスケスは、古典主義時代のエピステーメーを先取りしていたのだ、というふうにフーコーは解釈しているのだと思われる。

ベラスケスと古典主義時代のエピステーメーとが、表象のたわむれを通じて結びついていることを、フーコーは次のように言っている。「おそらくベラスケスの絵の中には、古典主義時代における表象関係の表象のようなもの、そしてそうした表象の開く空間の定義があると言えるだろう・・・(この絵には)表象の主体そのものが省かれているのだ」(「言葉と物」第一章末尾、渡辺・佐々木訳)

この文章は。主体なき表象こそが古典主義時代の特徴だと主張しているように読める。ここでいう主体とは、人間のことである。主体なき表象とはだから、人間不在の表象ということになる。なんだかわけがわからぬように聞こえるが、それは我々現代人が、人間と言うものを当然の前提としてものを見ることに慣れてしまっているからであって、その点では、時代のエピステーメーに制約されているわけだ。ところが、古典主義時代には、人間という概念が存在しなかった。人間が操作概念として前景に出てくるのは、近代に入ってからのことだ、というのがフーコーの基本的な主張なのである。

フーコーは、この著作の第九章で再びベラスケスに言及し、ベラスケスの「侍女たち」の中に、古典主義時代の表象の仕組みが認められると繰り返している。それは、やはり主体不在の表象ということであって、その理由は、ベラスケスの時代にはまだ人間が存在していなかったためだとして、次のように言っている。「18世紀以前に<人間>というものは存在しなかったのである・・・<人間>こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物に過ぎない」(同上)

こういうわけでフーコーは、ベラスケスの絵の中に、人間不在の表象の戯れのようなものを見出し、それが古典主義時代のエピステーメーに通じていると判断したがゆえに、古典主義時代のエピステーメーを主たるテーマとするこの著作の冒頭に、この絵の解釈を持ってきたのであろう。




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