知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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養生術と家庭管理術:フーコー「快楽の活用」


古代ギリシャ人にとって、<性>の管理としての快楽の活用は、自己の身体との関係においては養生術という形をとり、女性との関係においては家庭管理術という形をとる、とフーコーは考える。ここで自己とか、女性という言葉が使われるのは、ギリシャ人において、<性>とは基本的に男性の問題だとする前提があるからである。

まづ、養生術。この言葉からは、生命とか健康とかいったものへの医学的な配慮というものが伝わってくる。<性>は、道徳的な問題として語られる場合がないわけではないが、ギリシャ人が、<性>について主に拘るのは、その医学的な側面なのである。これは、キリスト教時代の<性>が、主に道徳的な禁止や抑圧の問題であるのとは、大きく異なっている。「性行動にかんするギリシャ人の道徳的省察は、禁止事項を正当化しようと努めるのでなく、ある自由を、つまり<自由な>男性が自分の活動のなかで行使する自由を、様式化しようと努めた・・・(一方)性行動の医学的な問題構成は、その行動の病理的形式を除去しようとする配慮にもとづくよりも、その行動を健康管理や身体生活と可能な限りうまく統合したいという意思にもとづいて行われてきた」(「快楽の活用」第二章、田村俶訳)というわけである。つまり、ギリシャ人にとって<性>の問題は、道徳的には自由な男性の自由な生き方をめぐる問題であり、医学的には健康な生き方の問題であったというのである。

<性>を主に健康管理の問題として考えるという姿勢は、性をもっぱら<性行為>に集約して論じるというギリシャ人の特徴的な思考様式をもたらした。ギリシャ人にとって<性>とは、人間同士の愛の交わりというよりも、身体的な交わり、つまり性交であった。性交は身体に様々な影響を及ぼす。その影響には好ましいものもあれば、好ましくないものもある。望ましいのは、好ましい影響を最大化する一方、好ましくない影響を最小化することである。性交は、身体の運動ならびに精液の排出によって、体を暖めたり、冷やしたり、乾かしたり、湿らせたりする効果を持つ。したがって体が冷えているときとか、逆に熱せられているときとか、湿っているときとか、または乾いているときにはそれぞれ効果がある。反対に、精液の排出によって、体のもつエネルギーを失うことになり、その分生気が弱まることともなる。要は、目的に応じて、節度ある性交に心がけることなのだ。そうすれば、身体は好調さを保ち、健康が維持されることともなる。

フーコーがギリシャ人の<性>を論じるに当たって、性交とその結果排出される精液を特に重視しているのは、ギリシャ人同様フーコーもまた、<性>を男性の問題として考えているからだろう。フーコーが<節度ある性交>を論じる際には、それは主に性交の回数を意味しているのであるが、それは性交によって精液が失われることは、男性にとって非常な重大事だという認識があるからであろう。フーコーは、男が精液を排出することは、なにか重大なものを失うことのように考えているフシがある。「精液というものが全身から奪い取られたものであるにせよ、また、体と魂とが互いに接する箇所に起源をもつにせよ、また、体内での食べ物の長期の精製をへて形づくられたものであるにせよ、それを排出する性行為は生体にとって多くの損失を伴う消費である」(同上)とまで言って、フーコーは徹底的に精液に拘るのである。

ともあれ、<性>の問題を精液に集約して論じるやり方を通してフーコーは、性がひとつには男性の問題であり、もうひとつには身体としての生存にかかわる問題だと考えるギリシャ人たちの思考を代弁しているかのようである。

養生術が、男性の自分自身との関係を取り上げているのに対して、家庭管理術は、男性と女性との間の<性>をめぐる関係について取り上げる。問題の中心は妻との関係、つまり<結婚の知恵>についてである。

「遊び女は快楽のためのもの、妾は日常の世話をしてもらうもの、妻は正式の子孫をつくって家庭の忠実な守り手であるためのもの」(同上、第三章)。これはデモステネスの作とされる「ネアイラスへの反論」の一節であるが、この文章からはギリシャ人が「男性は結婚してもそれによって性の面では拘束されない」ということが読み取れるとフーコーは言う。しかしだからと言って、妻の立場が軽視されていたことが意味されるわけではない。むしろ妻は特権的な地位を享受していた。というのも、「遊び女が与えるのはもっぱら快楽だけであり、妾のほうはそのうえ日常生活の充足をもたらす力を持つけれども、妻だけが自分に特有な地位に属するある種の機能をはたすことができる、つまり嫡出子を生み、家庭の連続性を確保することができる」のである。それ故、「良い生まれで自由民である女性、しかも自分の妻でない女性に触れること、正規の結婚以外に種を付けること、自然に反して、不毛な種を男どもにまくこと」は、どんな者にも禁止されるべきなのである。

養生術における自分自身との関係が、節制にもとづく克己であったのにたいして、結婚生活における妻との関係は支配と服従の関係である。というのも、男性は女性を支配するようにできており、女性は男性に服従するのが自然のあり方であるからだ。とはいえ男性は自分の妻に威圧的であってはならない。あくまでもやさしく振舞う必要がある。なぜなら威圧的な支配は不正だからである。「妻にたいする第一の責務は、いかなる不正も加えないことである。このようにすれば、夫自身も不正を加えられることはなかろうから。一般的な道徳が教えているのは、まさしくそのことであって、妻はピタゴラス派の人々が言うように、家庭にあっては嘆願する女であり、生家の竈から奪い取られた者なのだから、不正を加えないようにしなければならない。ところが夫の不正とは、自分の家の外で女と関係をもつことである」(同上)

ギリシャ人は結婚生活が男の性を制約しないものと考えていた一方で、夫たるものは妻に不正を加えてはいけないとし、その不正とは結婚生活以外で女や男たちとの性生活をもつことを意味した、とするこのフーコーの指摘は、論理的には矛盾していると言えよう。しかしギリシャ人たちはそれを矛盾だと思っていなかったし、フーコーも同じように考えているらしい。たしかに結婚生活以外で性行為をすることは妻への不正になるかもしれないが、それは夫の人間としての価値を徹底的に損なう致命的な不正とは受け取られていなかったのだ。できうれば、結婚生活以外での性行為を自粛し、妻一筋に生きるのが理想であるが、それができないでも、夫が自分の価値を貶めることにはならない。夫の自制は、ある種の余分な行い、功績として付加される余剰のようなものとして捉えられていたわけである。

ギリシャ人は、家庭の支配と国家の支配との間に連続性を認めていた、とフーコーは言う。どちらも他人を支配することでは共通しているからである。家庭にあっては、男である夫が妻である女を支配するように、国家にあっては、男性である統治者が、それ以外の被統治者を支配する。どちらにも、支配と服従という関係が成立している。このように支配・服従の権力的な要素を強調する視点は、若者愛の場合にも見られるであろう。

フーコーによれば、性をめぐる自分自身とのかかわりは、自分の自分による支配の問題ということになる。また、妻や妻以外の女とのかかわりは、他人の支配ということとなる。いずれにしても支配と服従の関係なのであり、その点では権力に裏打ちされた関係なのだと言える。こうした見方がこの本の最大の特徴なのだと言えるのであって。フーコーは<性>を権力現象の一つの現われだと主張しているように聞こえてくるのだ。




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