知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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パノプチコン:フーコー「監獄の誕生」


パノプチコンをテーマに取り上げた「一望監視方式」の章は、「監獄の誕生」の中でもっとも有名になった箇所である。「監獄の誕生」といえば、パノプチコンの誕生とパラレルに論じられるほどだ。パノプチコン(一望監視装置)というのは、効率的な監視の装置としてベンサムが推奨したものだったが、それは監獄のみならず、社会全体にも適用可能である。というか、ヨーロッパ近代社会と言うのは、パノプチコンがもっとも効果を発揮する社会なのである。ヨーロッパ近代社会は、規律と訓練によって運営されている社会なのであって、そのような社会だからこそ、効率的な監視装置たるパノプチコンはもっとも効果を発揮するからである。このように、フーコーの議論は、効率的な監獄のありかたとしてのパノプチコンから、社会全体を監視する装置としてのパノプチコンの議論へと発展する。彼のパノプチコン論はだから、監視社会論の一バリエーションだと言える。

パノプチコン(一望監視装置)とは、円環状に配置した建物の中軸部分に円周全体を一望に見渡せる監視場所を設けたものである。円周状部分には、中軸に向かって顔を向けた部屋が並び、中軸部分にいる人間の目には、すべての部屋の住人が一望で見渡せる。一方、円周状に並んだ各部屋の住人の目には、中軸部分にいる人が見えない。「<一望監視装置>は見る=見られるという一対の事態を切離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、決して見られはしないのである」(「監獄の誕生」第三部第三章、田村俶訳、以下同じ)

というとある種の見世物を連想させるが、これは見世物とは正反対のものだとフーコーは言う。見世物というのは、大勢の人々が少数の人々を観察することだが、これは、少数の人々が大勢の人々を観察するためのものだからである。観察の目的は、一義的には監視である。円環状に収容(監禁)された人々が、どのような行為をしているか、あるいはそうした行為の背後にどのような動機が潜んでいるか。それを絶えずチェックしながら、監禁する側の意図に少しでも反する兆候を見つけたら、それを矯正する。それにはとどまらない。監禁者は非監禁者に対して、お前は常に監視されており、お前が監禁の意図に反したことをしたり考えたりすれば、かならずその罰を受けるのだと言うことを、思い知らせるのである。だからパノプチコンは、監視のための施設であるとともに、訓育(規律と訓練)のための施設でもあるのだ。

訓育とか規律と訓練とかいう言葉は、近代ヨーロッパ社会を叙述するさいのフーコーのキーワードである。それは監獄のみならず、社会のあらゆる領域で猛威を揮っている。学校、工場、病院などといった大勢の人々を取り扱うところでは、いたるところ規律と訓練がものを言うのだ。規律と訓練は、監視によって裏打ちされる。監視によって集められたデータをもとに、個人に対して規律の強要と訓練の徹底が図られ、その人が社会にとって有用な人材に鍛えなおされるよう配慮される。それ故、監視のための装置であるパノプチコンは、監獄のみならず、社会のあらゆる領域で適用可能である。その意味で、近代ヨーロッパ社会は、汎監視社会といってもよい。

監視が目指している規律・訓練という目的は啓蒙時代の落とし子だとフーコーは言う。啓蒙時代とは「自由」の概念を発見した時代のはずだが、それが自由の正反対たる監視と規律・訓練を生み出したと言うのだ。フーコーがこういうには、それなりの理論的な背景がある。啓蒙の時代はやがてフランス革命を通じて本格的なブルジョワジーの時代を現出させた。ブルジョワジーの時代とは、私有財産が尊重される時代であるとともに、私有財産を際限なく増大させるために人々を支配することが目指された時代だ。人々を支配するには、さまざまなやり方があるが、その中核になるのが、規律・訓練なのだ。規律・訓練を通じて、人々は従順な労働者へと作りかえられるとともに、最大限の生産性を発揮するように調整される。労働者は、一人の人間である前に、資本を拡大再生産するための不可欠な要素となる。単なる要素に過ぎない人間は、規律と訓練によっていかようにも変形することができる。心理学をはじめとした近代の人間諸科学は、そうした目的に使えることを最大の使命として期待されているのである。

こういうわけで、規律・訓練をめぐるフーコーの議論は、この本のなかでもっとも熱を帯びた部分だ。「監視と社会」という本は、監視と処罰を論じる一方、監視を媒介概念として規律・訓練を叙述するのに余念がない。フーコーにとって、彼が生きている時代にストレートにつながる近代社会とは、監視社会であり、人間が規律・訓練を通じて資本の再生産に深く組み込まれている社会なのだ、という認識が基本としてあるようである。

この規律・訓練をフーコーは、<反=法律>であると言っている。<違法>ではなく反=法律というわけは、この規律・訓練の制度が法律の枠組を前提としない、それ自体自立した領域を形成しているということを言いたいらしい。人間相互間の関係は、権利にかかわる領域が多いと言う点で、法律と無縁ではないはずだが、この規律・訓練にかんしては、反=法律が成り立つと言う。それはどういうことか。

「法律体系が普遍的規範にもとづいて法的主体を規定するのに対して、規律・訓練は<人々の>特色を示し、分類を行い、特定化する。ある尺度にそって配分し、個々人を相互にくらべて階層秩序化し、極端になると、その資格を奪いとり、相手を無効にする。ともかくも規律・訓練は、自らが取締りを行い自分の権力の不均斉<な諸機能>を作用させるそうした空間や時間のなかでは、決して全面的ではないがけっして取り消されもしない、法律の一時停止を実施する。規律・訓練はどんなに規則遵守的で制度中心的であっても、その機構上は一つの<反=法律>である」(同上)

上記の疑問にフーコーはこう答えるのだが、ここで述べられているような事態は、軍隊のなかで典型的に見られるところである。軍隊にあっては、娑婆とは異なった基準が通用する。たとえばある一定の状況下では人を殺してもかまわないとかいうのはその極端な例であるが、そこまで至らずとも、娑婆とは全く異なった、ある場合には正反対の基準が通用する。軍隊内で犯罪とされている行為にも、娑婆における罪刑の基準とは異なった基準が適用される。それは、軍隊と言うところが、人間性をなるべく捨象して、人間を普遍的な規範の担い手としてではなく、軍事行動と言う特定の目的のために動員されている戦力として捕らえているからだ。

この戦力という概念は、軍隊以外の領域、たとえば工場とか企業組織においても類比的に適用することが出来る、学校や監獄も、真新しい人間を戦力として教育したり、あるいはいったん戦力から脱落した人間をもう一度戦力としてよみがえらせるための施設だと言えないこともない。

こんなわけで、フーコーの近代社会のイメージは、監獄に典型的に見られるような監視社会のイメージであり、そのイメージは軍隊においてもっとも鮮明な像を結ぶ、というふうに捉えているようである。もっともフーコー自身は、監獄と軍隊とをストレートに結びつけた議論は展開していないのだが。




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