知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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プロティノスと新プラトン主義


プロティノス(204-270)は、ギリシャの古典哲学の最後の巨人であったともに、それ以後に続くキリスト教的な世界観にとっては、端緒となる考え方を提供した思想家である。プロティノスが展開した新プラトン主義は、「一なるもの、精神、霊魂」の三位一体の形而上学に帰着するが、それはキリスト教における「父と子と精霊」の三位一体の神学に対応し、プラトンが教える永遠のイデアと神の永遠性の観念を橋渡しするものであった。

プロティノスが生きた時代は、ローマ帝国の箍がゆるんで、ゲルマン人やペルシャの侵略をうけ、国家は疲弊して、人びとには明日が見えない時代であった。こんな時代背景のもとでは、人びとは現世に希望を持てず、ただあの世だけが救いに思われた。プロティノスの展開した新プラトン主義は、こうしたあの世への願望を体系化したものだったともいえる。

プロティノスはエジプトのリコポリスに生まれ、アレクサンドリアにおいてアンモニウス・サッカスに学んだ後、40歳の頃からローマで教えるようになった。晩年には多産な著作活動をし、それを弟子のポルフュリウスが編纂して「エンネアデス」という書物にまとめた。

プロティノスの思想はプラトンからインスピレーションを受けたものであるが、プラトンの広範囲にわたる思想のうち、彼が採用したものは、イデアに関する教説のみだといっても過言ではない。あるいは、弟子のポルフュリウスがプロティノスの説を体系的に整理した際、イデア的な部分に焦点を当てるあまりに、ほかの部分を切り捨ててしまったのかもしれない。新プラトン主義には著しい神秘主義や非合理的な観念があふれているのであるが、その創始者たるプロティノスには、そうした極端な傾向は見られないといってよい。彼自身はむしろ常識的で快活な人柄だったように思われるのだ。

プロティノスはプラトンがたどり着いたイデアの世界を出発点にして、そこから議論を下降的に進め、世界のあり方を順序だてて説明するという方法を取っている。何故イデアの世界が出発点となるのかについては、前提となる分析はないといってよい。かれにとってイデアとは、先見的に与えられた完全かつ永遠の実在なのであり、その前提を云々する必要のないものであった。しかしてその本質は「一なるもの」ということにある。

この「一なるもの」に精神、霊魂を加えた三つの階層から世界は成り立っている。「一なるもの」が根源であり、それが自ら放射あるいは流出することによって「精神」が、さらに「精神」が流出することによって「霊魂」が生まれる。我々が現実に生きる世界は、この「霊魂」が自ら流出することによって形成されるのである。

このように、プロティノスの説は、「一なるもの」から順次下位の階層へと流出する過程を説くことから、「流出説」とも呼ばれている。プラトンにおいても、イデアは永遠の一者ではあったが、これと現実の世界がどうかかわりあうのかについては、洞窟の比喩のような形であいまいに語られるのみで、必ずしもわかりやすいとはいえなかった。プロティノスは、イデア的な物自体に階層を持ち込むことによって、高度なイデアと低次のイデア、イデアと現象との関係について、思索を進めようとしたのである。

「一なるもの」とは、すべての存在を超越していて、自らは不動でありながらすべての存在がそこから流出する源である。プロティノスはこれを時には神と呼び、時には最高善と呼んでいる。いかなる述語もつけることができず、単に「ある」とのみ表現される。パルメニデスの一者を想起させる概念といえよう。

「精神」はヌースが原語である。このヌースをプロティノスは「一なるもの」の映像であるという。それは「一なるもの」から出てくるのであるが、「一なるもの」の一部であるとか、それの創作したものという意味ではない。太陽が光を発することによって見えるものとなるように、「一なるもの」が自ら輝くことによって、自らを見えるものとなるようにさせる過程をあらわすといってよい。

三位一体の第三のもの「霊魂」は、ヌースよりは低次であるが、そこからすべての事物が生まれてくる源となる。この世界に実際に存在すると見られている事物や生き物、あるいはそれらが織りなす生成や変転は、すべてこの霊魂の働きによるのである。いいかえれば、個別的な事象に対応する個別的なイデアといえるかもしれない。

こうしてみると、プロティノスの三位一体の説は、世界をイデアの生んだもの、それ自体のうちでは根拠を持たないものと考えていることがわかろう。一方で、プラトンとは異なり、プロティノスはイデアを単一で分解不可能のものとは見ずに、それが階層をなしていることを主張した。最も低い階層においては、世界の具体的な事物に対応した性格を持ち、最も高度の次元においては、存在一般としての最高原理としての性格を持っている。

プロティノスが描いたような世界秩序の中で、個人にとってよい生き方とはどのような生き方なのか。プロティノスはそれを「エクスタシス(恍惚)」という概念で説明している。

エクスタシスとは直感を通じて絶対者と一体化するときの恍惚の状態をあらわしている。我々の主観は概念的な分析を通じては絶対者を捕らえることはできぬ。そのような認識にあっては、認識するものとされるものとは外的に対立しているばかりであるが、そうではなく、認識するものとされるものとが一帯となるような認識が求められなくてはならない。そのような認識は理性の自己直感だということができる。つまり人間としての我々が理性を見るのではなく、理性が自分自身をみるような直感である。

このような直感のうちでも、一者としての神あるいは最高善の直感がありうる。そのような直感は類希な恍惚をもたらす。それがプロティノスのいう「エクスタシス」である。

これがキリスト教者の好んで云々する「神」の直感と類似していることは、よく見て取れるだろう。実際プロティノスの新プラトン主義の思想は、中世のキリスト教義を支えたばかりか、ルネサンスや宗教改革の思想的動向にも、大きな影を及ぼすようになるのである。




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