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古在由重と丸山真男の対話


古在由重と丸山真男の対話「一哲学徒の苦難の道」(岩波現代文庫)を読んだ。体裁の上では丸山真男が聞き手になって、戦前・戦中のあの思想弾圧の困難な時代を生き抜いた一知識人の生きざまを聞こうというものだが、丸山自身もこの時代に深い個人的な思い入れがあるために、一方的なインタビューではなく、二人が共同して、時代分析にあたるといった観を呈している。要するにこの時代についての同時代人の回想といった趣がある。

古在由重といえば、今の人にはあまり知られた存在ではなくなったが、戦前・戦中の困難な時代をマルクス主義者として節を通した哲学者であり、戸坂潤とともに、戦後しばらくの間深い尊敬を集めたものだ。戦後勁草書房から出た全六巻の著作集を筆者も読んだことがある。主著は戦中に書いた「現代哲学」といえるが、これはマルクスの「ドイツ・イデオロギー」にならって、同時代の日本の思想状況を根本から批判しようとする意図から書かれた。だが、正面から日本思想を批判すると治安維持法に引っかかると言うので、同時代のドイツの思想をまな板に取り上げ、それらを完膚なきまでに粉砕することで、間接的に、軍国主義の片棒を担ぐ同時代の日本の思想を批判するというものだった。

しかしそんな配慮も功を奏さず、古在由重は二度にわたって投獄され、最期には偽装転向をせざるを得ない状態にまで追い込まれたが、それでも良心を売ることはなかった。一方盟友の戸坂潤は偽装転向も拒否したおかげで、長野の刑務所で無念の獄死を遂げた。人間の生き方としてどちらが正しかったか、そんなことを問題にしたらきりがないが、生き延びた古在由重は、マルクス主義者としての立場から、戦後の論壇をリードしていったのである。(彼の言説には様々な制約"たとえばソ連に対する甘い見方など"があることをおいても)

そんな古在由重の生きざまについて、丸山はあとがきの中で、「この対談の中で読者に感じとってもらいたいことは、学問的批判の精神を持続させるという一見何ごとでもない事柄が、なみなみならぬ決断を必要とするような、そういう時代や状況がつい昨日の日本にあった、ということである」と言っている。

たしかに、今でなら一学者として当たり前にできていることが、戦前・戦中の時代状況の中では、簡単にはできなかった。それは場合によっては命と引き換えにするようなことだったわけだ。戦後の平和な時代に生きてきた筆者などには想像もつかないことである。

対談は大正デモクラシーの時代への言及から始まる。この時代に学問的な自己形成をした古在由重は、まず自由主義的な思想を見につけ、新カント派の倫理的世界観に共鳴したが、やがてヘーゲルの歴史哲学に感心し、その延長上でマルクスの「ドイツ・イデオロギー」を読むに至って唯物論的な世界観に傾いていったという。そして、唯物論研究会の活動に携わるようになり、それがもとで検挙されたりもする。

丸山は、古在由重の唯物論研究会へのかかわりに興味を示し、始めからかかわったのかなどと聞いている。丸山自身一高生の時に、唯物論研究会の講演を聞きに行って豚箱に放り込まれた体験があって、唯物論研究会というものに強い関心を抱き続けていたようなのである。

唯物論研究会は、戸坂潤や永田広志などが中心になって1932年にできたが、その時には古在由重は加わっていなかった。彼が加わったのは1935年からだ。そして1938年には研究会のメンバーが一網打尽になり、古在由重は二年間の獄中生活を送ることとなる。そして偽装転向声明をして下獄し、その後はカトリックの辞書編纂のアルバイトなどをしながら、戦争の終るのを待ち続けた。その折のことについては、著作集に収められている「戦中日記」にあるとおりだ。

獄中生活についても言及がある。古在が放り込まれたのは、畳三畳くらいの大きさの雑居房で、7,8人から十数人が起居を共にしていた。同房の者は世間の下積みの連中で、詐欺師、空き巣、すり、かっぱらい、放火、ばくちなど、様々な罪で検挙された連中だった。面白いことに、詐欺師は知能犯扱いで、そこのところが同じ知能犯扱いの先生と同じだなどと、詐欺師から妙な同情を受けたという。こうした連中の中で古在が一番気に入ったのはばくち打ちだったという。この連中は非常に義理堅くて、女房もしっかりしているのが多い。他の連中の女房は最初の頃は差し入れをしているが、そのうちに来なくなる。ところがばくち打ちの女房は最後まで亭主に尽くす。だから自分もそういう連中の心意気を信用して、いろいろと危ないことを頼んだりもした、という。

監獄内の拷問も日常的に行われていたという。古在は色々な事情があってひどい拷問を受けたことはないと言うが、朝鮮人などは、青膨れになるまで竹刀で連打されて、房に返されても座る事さえできなかった。また、女性に対する侮蔑的な行動はゆるすことが出来なかったほどだ、ともいう。

こんなわけで、古在由重は戦前・戦中の日本の権力の野蛮さを、身を以て体現したわけであるが。その野蛮な権力の実像を古在は、「軍人が威張っている姿、天皇が陸海軍の大元帥として馬に跨っている姿、役人どもが官僚から巡査にいたるまで威張りかえっている光景」として描いている。

この天皇が馬にまたがってふんぞり返っている姿というのは、ちょっとしたショックだ。同じ国家君主でもイギリスの国王は、皇后ともども幸福な家族の象徴のようにいつも一緒に並んで歩いている。ところが日本の天皇は、馬に跨って捧げ銃の軍隊を、陸海軍の元帥として閲兵する。これは、日本の戦前の天皇制の本質を浮かび上がらせているような光景だ、というのである。

もうひとつ、この対談で筆者が感心したのは、古在由重の戸坂潤への尊敬の念だ。戸坂はマルクス主義者として説を曲げなかったところが偉いだけではない、日本の学者の中では珍しく、地に足ついた態度を貫いていた。それを古在由重は科学的精神といって、次のようにいっている。

「戸坂潤はあまりヒューマニズムということをいわなかったのですね。むしろ"科学的批判"ということをいう。そっちに重きを置いて、文部省の"教学精神"に対して、"科学的精神"というものを、正面から振りかざしたのです」

その戸坂潤も、カントから出発してヘーゲルを経由しマルクスに達した。その点では古在由重と同じような道をたどったわけである。節を守って獄死したこの友人を、古在由重が敬愛する姿は美しい。

ところで、この対談を読んで、もう一つ気が付いたことがある。丸山真男は戦後いち早く日本ファシズムの批判を始めたわけだが、筆者も別稿で指摘しているとおり、ファシズムについての厳密な定義をしたことがない。それがどうしてなのか、この対談を読んで腑に落ちたのである。古在由重と同じように、丸山にとっても、日本ファシズムというのは身体感覚を以て体得したものであって、あらためて言語化する必要がないほどに、身に染みたことだったということが、この対談から説得力を以て伝わってくるのである。


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