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禅と日本人の自然愛:鈴木大拙「続禅と日本文化」


鈴木大拙は、日本人の自然愛には西洋人のそれとは異なった独特の特徴があり、それについては禅が多大の影響を与えたと考えている。すなわち彼は、日本人の自然愛には二つの大きな特徴を指摘できるが、それらはいずれも禅と深くかかわっているというのである。

その特徴の一つ目は、日本人が自然を、西洋人のように、征服すべき敵対者として考えているのではなく、友人として考えていることである。それのみならず、自然をも我々人間同様に将来仏陀となるべき資格を持ったものと見ている。つまり、自然もまた生きた存在なのだ。自然を死んだ対象的な存在、自分を生きた主体的な存在と分裂させて考えること自体が、日本人の生き方から外れている。日本人にとっては、主客の対立とか、人間と自然との対立とかいうことは意味をなさない。それらは小賢しい概念によって媒介せられた考え方である。日本人にとって、自然と人間とは本来一体のものなのだ。そしてこういう考え方を、禅もまた共有している。というより、禅の考え方が日本人に作用した結果、日本人はますます上のような考え方をするようになった、という具合に大拙は捉えるわけである。

特徴の二つ目は、日本人の自然を愛する感情には宗教的なものがあるということである。宗教的な境地とは、大拙によれば、ものに囚われない自由の状態を言う。そしてこの自由の境地を禅ほど重視するものはない。その点で、禅は日本人の自然愛を洗練させたと言うのである。また、禅は、言葉や観念を廃して直覚的に実在を把握しようとするが、そうした姿勢も日本人の自然観を研ぎ澄ましてきた。こうして日本人本来の自然愛に禅の自然観が作用して、日本人の自然観は一層洗練されてきた、と大拙は捉えるのである。

大拙が日本人の自然愛の見本として持ち出すのは、良寛などの禅僧や利休や芭蕉を始めとする芸術家だ。彼らの生き方や作品に接すると、そこには日本人の自然愛の特徴が凝縮された形で表現されているのを感じることができるという。理解とか認識とかではなく、感得であることがミソだ。無論彼ら以前にも、自然を愛した芸術家は居たわけで、大拙もその代表として西行を挙げている。

西行は平安時代末期に生きた人だから、禅とはとりあえず接点がない。ところが彼の歌は、非常な禅味を感じさせると大拙は言う。それは後にわびとかさびとかいう言葉で表現されるようになるものだが、西行の場合には、無常という言葉が似合うようだ。無常とは、仏教的な言葉だが、無目的とか自由と言い換えることもできる。要するに何ものにもとらわれない境地だ。そうした境地が禅のめざすところと通底しあっていることは十分に納得できる。つまり、西行に代表されるような、古代までの日本人の自然観の特徴は、そもそも禅とつながるところを持っていたというわけであろう。

人間と自然との一体性をよく表したものとして、仏陀涅槃図が挙げられると大拙はいう。これをキリストの磔刑図と比較すると、東西の自然観の相違がよくわかると言うのだ。キリストが苦痛の表情をして垂直にブラ下っているのに対して、仏陀は穏やかな表情で平面に横たわっている。キリストの磔刑が自然との闘いを想起させるのに対して、仏陀の涅槃は自然との調和・融合を想起させる、というのである。この見方にどれほどの意義があるか筆者にはわからぬが、一つの見方としては面白いものがある。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015
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