知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カントの物自体


人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物自体ではない。物自体そのものは認識できない。これは哲学史上「カントの物自体」として有名になったテーゼである。カントはこのテーゼを次のようにわかりやすく書いている。

「わたしたちが直感する事物は<現象であって>、わたしたちがそのように直感している事物そのものではない。わたしたちが直感する事物の間の関係は、わたしたちにはそのように現れるとしても、<事物において存在している>関係そのものではない・・・対象そのものがどのようなものであるか、またそれがわたしたちの感性のこれらのすべての受容性と切り離された場合にどのような状態でありうるかについては、わたしたちはまったく知るところがない」(中山元訳)

この言明は一見不可知論としてうつるが、そうではない。カントがここで言っていることは、人間の認識は対象そのものをあるがままに受容するのではなく、自らに備わった内的な枠組みにあてはめて受容するということである。その枠組みとは、空間と時間というアプリオリな形式のことである。人間はこのアプリオリな形式を通じて、すなわち空間と時間という形式に当てはめて、対象を受容するのである。したがってそれは対象それ自体ではなく、自分の内面の鏡に映った像ともいうべきものである。像は無論対象に似てはいるが、対象そのものではない。

ところがこの像を、あたかも物自体そのものと混同する見方が横行している。そのような見方をするものは、空間と時間も人間の直感の形式などではなく、物自体に備わった属性として考えがちである。そのような見方に対するカントの批判の要点は、前稿で見たところである。

ここでは、物自体についてのロックとライプニッツの説について、カントが批判しているところを見てみよう。

まずロック。ロックも基本的にはカントと同じく、人間は物自体そのものを認識できるわけではないと考えていた。人間が認識できるのは物自体によって喚起された現象である。ここまではカントと同じスタンスと言えるのだが、その先が微妙に違う。

ロックはカントと違って、人間にアプリオリな能力が備わっているとは考えなかった。人間の心は真っ白なテーブル(タブラ・ラサ)のようなものと考えられ、そこに経験を通じて様々なものが書き込まれる。人間の認識作用はあくまでも、受動的なイメージでとらえられていたわけである。

対象が人間にもたらす感覚には二種類あるとロックは考えた。形や質量など対象そのものに固有な性質(第一性質)と、匂いや音など人間の感覚器官が間に入って初めて感知されるもの(第二性質)である。第二性質は対象そのものではなく、対象と人間の感覚との相互作用から生まれる。したがって人間がいないところでは成立しない。それに反して第一性質の方は、人間を介在させないでも成り立つことから、物自体に固有の性質であると考えられる。

ロックはこのように考えることで、一方では物自体は認識不能といっておきながら、他方では物自体について言明するという矛盾を犯している、とカントは批判するのである。そしてロックがそのような矛盾に陥ったのは、人間の認識をすべてアポステリオリなものと考えたことの結果であると断罪するわけである。

ライプニッツは、人間には物自体を認識する能力がそなわっていると考えた。ただ人間は神とは違って、物自体を一瞬のうちにしかも明晰に認識するわけにはいかない。人間の認識は一部曇っているのだ。だが人間は、感性から出発して、知性を働かせることで、次第に物自体そのものの真相に迫っていくことができる。感性の段階ではまだ曇っていた物自体の認識も、知性によって腑分けされていくことで次第に明晰さを増していくと考えるわけである。

これに対してカントは、感性と知性とは単に段階を異にしつつも互いに連続したものなのではなく、基本的に別の物なのである。感性は対象を直感し、知性は直感を材料にして概念をつくりあげるのみならず、知性そのもののアプリオリな能力を用いて普遍的で必然的な概念を作り出すことができる。

ライプニッツが、知性と感性との本質的な相違を理解しないのは、人間は対象そのものを認識することができるのであり、認識が対象と一致することを我々は真理と呼ぶのだとする、伝統的な偏見にとらわれているからなのだ、とカントは喝破するわけである。

しかし、ここでカントの物自体をめぐって、ひとつのアポリアが生じてくる。真理とはなにか、という問題である。

西洋哲学の伝統的な考え方によれば、真理とは人間の認識が対象と一致することであった。そしてこの場合の対象とは物自体としての対象のことであった。ところがカントは、人間には物自体そのものは認識できないという。では、何を以て真理を語ることができるのか。

カントの問題意識は、人間の認識についての超越論的な解明というところにあった。ところが真理はカントにとって、神の存在などと並んで形而上学の問題なのである。形而上学の問題については、カントは超越論的な問題意識を超えたところで議論している。ところがそうした議論は、一義的で明確な議論とは相いれないのである。ではカントによって、真理の問題は棚上げされてしまったのだろうか。どうもそう思わせるフシがある。

真理の問題を離れたところで、カントの物自体の議論は、現代哲学にもいまだにインパクトを与え続けている。人間の世界認識の相対性の問題などはその一つである。これはユクスキュルの問題意識とつながるものだ。

人間の目に映った世界があるように、馬の目に映った世界がある。人間の目は顔の前面に二つ並んでついているから、基本的には視野が前に向かって開かれている。それに対して馬の目は、顔の両側に離れ離れについているから、視野は360度開けている。同じ対象世界なのに、人間と馬では様相が異なるのだ。

こうした事情をもとに、人間の世界認識の相対性がかまびすしく論じられるようになった。これは、同じ世界を認識するについても、認識主体に生まれ備わった能力に応じて、世界は違ってみえるということに着目しているわけである。その、種に固有の能力が、カントのアプリオリと似ていることは、贅言するまでもあるまい。




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