知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カントのカテゴリー論:認識の枠組としての純粋知性概念


人間の認識は感性と知性の協働によって成り立っている。感性によって対象が現象として与えられ、知性によって現象が概念的に認識される。その関係をカントは次のようにいう。「感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは対象を思考することができない。内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である」(中山元訳「純粋理性批判」超越論的な論理学)

感性には対象を現象としてとらえるためのアプリオリな形式(空間と時間)がそなわっていた。感性は、ロックがいうように単に受動的な作用なのではなく、そこに能動的なものをもっていて、それを通じて対象を把握するのである。つまり対象は人間の認識に対して無媒介に現れるのではなく、空間と時間と言うアプリオリな枠組に当てはめて捉えられるわけである。したがって、人間以外の生き物が、人間とは違ったアプリオリな枠組を持っていたとしたら、彼らは人間とは異なった形で世界を捉えるだろう。

感性と同じように知性にもアプリオリな枠組が備わっている。人間の知性はその枠組に対象を当てはめることで、対象を概念的な認識に高めるのである。その枠組をカントは純粋知性概念と呼んだ。

純粋知性概念は最終的にはカテゴリー表と言う形で示される。それは簡単に言えば、人間による世界認識の様式を分類整理したものである。言い換えれば世界の存在様式を分類整理したものである。というのも、世界は人間の認識作用の相関者である限り(アプリオリな枠組みによって捉えられる限り)、世界の存在様式と人間の世界認識の様式とは一致するからである。

このカテゴリー表のアイデアを、カントはアリストテレスから借用した。アリストテレスにあっては、カテゴリーとは世界の存在の様式(実体とその属性)を分類整理したものであった。アリストテレスは、世界の存在のさまざまなあり方を網羅したうえで、それを低度のものから高度のものへと分類していき、最高度の分類基準を整理したものとしてカテゴリー表を作成した。アリストテレスは、最終的に10のカテゴリーを抽出した。

アリストテレスにあっては、世界に存在するものは、この10のカテゴリーのいずれかに分類される。何故カテゴリーが10なのか。それについては厳密な説明はなされていない。たまたまアリストテレスが、世界を10のカテゴリーの相のもとに捉えたというほかはない。

カントのカテゴリー論は、はるかに厳密な論理のもとに組み立てられている。

アリストテレスがカテゴリーを、世界の客観的な存在様式として捉えたのに対して、カントはそれを、知性に備わったアプリオリな枠組としてとらえる。人間は対象をこの枠組のどれかに当てはめることで、対象を概念的に認識する。世界の存在様式と知性のアプリオリな枠組とはパラレルな関係が成り立つ。だからアプリオリな枠組みを分類整理すれば、世界の客観的な存在様式も漏れなく分類できるに違いない。何故なら、経験的な知識には限界がないのに対して、アプリオリな枠組は完結した体系をなしており、十全な分類整理が可能だからである。

ところで人間の概念的な認識とは、判断の作用に支えられているとカントは言う。たとえば、AはBである、という場合には、Aという主語にBという術語を結び付けているが、それはAをBという概念に包摂ないし統合することを意味している。同じように、AはBではない、と言う場合には、AをBと言う概念に包摂乃至統合できないということを意味している。この包摂ないし統合の判断が、人間の概念的な認識に大きくかかわるというわけである。

ここからカントは、判断の一覧表を導きだし、さらにそれをもとにカテゴリー表を導き出す。カテゴリー表と判断表には一対一の対応関係が成り立っている。カテゴリーは世界の存在様式でもあり、なおかつ人間の判断作用の様式でもあるわけだ。世界の認識を、認識対象と認識主体との相互作用とみるカントの立場が、ここでも見事に貫徹されているわけである。

カテゴリーの中でカントが最も重視したのは、因果関係のカテゴリーである。カントは因果関係に関するヒュームの議論に啓発され、独断論の微睡から目覚めたといっている。だがカントは、ヒュームの不可知論に対抗し、この概念がヒュームの云うように経験的でしたがって必然性を持たないものなのではなく、そこには必然的でかつ普遍的な真理があるのだということを明らかにしたいと考えた。

ヒュームにとっては、概念とは経験をもとに作られるものであるから、あくまでも蓋然的なものにすぎない。そこには必然性や普遍性は指摘できず、単に傾向性を指摘できるに過ぎない。因果関係も同様で、我々はある原因からある結果が生じることについて、それが時空を超えて確実かつ絶対に生じるとは断言できない。言えることは、そうなる確率が高いということだけだ。

これに対してカントは、因果関係は絶対かつ普遍的な概念だと主張したかったのである。因果関係が単に蓋然性を主張できるに過ぎないものなら、人間の認識とは一体何なのだろう、そういう強い疑問がカントを捉えたのである。人間の認識とは陽炎のようにはなかいものではない、それは確固とした地盤に支えられ、普遍的で客観的な真理を主張できるものである。カントはこの主張を裏付けるために、カテゴリーと言うものを改めて持ち出したのである。

カテゴリーとは、人間の判断の様式に応じて抽出された概念である。判断とは、人間が対象を捉える作用のことである。しかしてその判断には一定のアプリオリな枠組がある。人間である限りすべての者は、このアプリオリな枠組に対象を当てはめることによって、対象を概念的に認識する。またこの枠組に当てはめて認識されている限り、その認識対象は、つねに同一に認識される。

このことが何を意味しているのか。よく考えてみよう。カントは、人間の認識が対象と一致することが真理の条件とは考えなかった。対象はアプリオリな枠組に当てはめられる限りにおいて概念的な認識となる。また、そうすることでしか人間の認識は成立しない。ということは、人間にとっての真なる認識、つまり真理とは、対象がアプリオリな枠組に適合していることをさすのである。このアプリオリな枠組はすべての人間に備わっているのであるから、対象がこの枠組に当てはまっている限りは、それはすべての人間にとって同一のものとしてあらわれるわけである。

これを別の言葉でいえば、人間である限りすべての者の認識は一致するはずだ、ということを主張している。これは一種の共同主観論の世界といえる。


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