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フェノメノンとヌーメノン:カントの純粋理性批判


カントは、認識が対象とすることのできるものは現象に限られるのであって、現象の背後にあってその源となっているとされる物自体については、認識することができないとした。しかしそのことは、物自体の存在そのものを否定することではない。物自体は存在するのかもしれないが、人間の認識能力を以てしてはとらえることができない。そういっているわけである。

そういう意味合いでの物自体を、カントはヌーメノンと呼んだ。ヌーメノンとは叡智(ヌース)と現象(フェノメノン)とからなる造語である。日本語では叡智的存在と訳される。

現象が感覚的な存在なのに対して、ヌーメノンは「感覚能力の客体となることがまったくない可能的なものであり、知性の対象としてだけ考えられる対象である」(中山元訳、以下同じ)

「知性の対象としてだけ考えられる対象」とはいったいどんなものだろうか。まずそれは、感覚の基礎を欠いているがゆえに、人間の認識にとっては、実在性を帯びたものにはなりえない。何故なら、「あるものが可能であることは、そのものの概念に自己矛盾が含まれていないことだけでは証明できず、そのものの概念に対応する直感によって、(存在が)裏付けられる」ことが必要だからである。

たとえば、「羽の生えた馬」という概念をとってみよう。これには論理上の矛盾は含まれていない。したがって我々の知性は「羽根の生えた馬」という概念を巡って様々な議論を展開させることができる。しかし、だからといって我々は、その概念が可能だとは(実在性を持ちうるとは)主張できない。感覚的な直感として与えられることがないためである。

このような概念をカントは、「不確定な概念」とも呼んだ。それは、「まったく自己矛盾を含まず、与えられた概念の限界を定める形で、ほかの認識とのつながりを持っているものの、その客観的な実在性をどうしても認識できない概念である」

叡智的存在(ヌーメノン)といい、不確定な概念といい、人間の認識の及ばないものを、カントは何故正面から取り上げるのか。それには深いわけがあるようだ。

哲学史上、大きなテーマであり続けながら、その実在性や客観性に学問的な疑問が向けられてきたものに、神の存在とか、人間の絶対的自由とかいったものがある。そうしたテーマはカントにとっては、物自体と同様、人間の認識能力の範囲を超えたものである。ところがそうした問題について、あたかも普通の認識対象と同次元で論じようとする風潮が横行している。ライプニッツなどはその典型である。彼は、自然法則の真実を証明するのと同じ議論で、神の存在証明を試みている。カントにとっては、神の存在は人間の認識能力を超えた問題なのである。

カントがフェノメノンと並んでヌーメノンを持ち出したのは、これらふたつのものの間にある深い深淵を強調するためだったのではないか。そうすることで、人間の認識能力が対応できるのはフェノメノンの世界だけであり、ヌーメノンの世界は、人間の認識能力の及ばない次元のものだということを明らかにしたいがためだったのではないか。

カントは次のようにいっている。「叡智的存在(ヌーメノン)という概念は、感覚の対象として考えてはならず、純粋な知性によって考えられるだけの物自体についての概念であり、この概念には自己矛盾は含まれていない・・・さらにこの概念は、感性的な直感を物自体にまで拡張しないようにするために、そして感性的な認識の客観的な妥当性に制約を加えるために、必要なものである。わたしたちの感性的な直感が到達しえないもの、すなわち物自体を叡智的存在と名付けたのは、感性的な直感は、知性の思考するすべてのものを超えたところまでその領域を拡張することはできないことを示すためだったからである」

つまりカントは、人間の思考の対象になるものには、感覚的直観に基づくフェノメノンと、知性の純粋な対象に過ぎないヌーメノンとがあり、この両者はそれぞれが独自の領域を持ち、互いに交わることはないということを云いたかったのだろう。そしてこの両者のうち、人間の認識が及ぶのはフェノメノンだけであり、ヌーメノンの方は、論理的に可能ではあり得ても、客観的な実在性を持つことはできない、と云いたかったのだと思う。

ライプニッツやデカルトは、論理的に可能であることを理由にして神の存在を証明していた。とくにデカルトの場合には、神の概念にはそもそも存在しているという規定があるのだということを根拠にして神の存在を証明していたが、そんな議論はカントにとっては、ただの欺瞞に過ぎない。そういう欺瞞がまかり通ってきたのは、人間の認識における現象の把握と、知性による純粋な論理的操作とを混同することから起こるのだ。

それ故、カントにとっては、知性の純粋な対象であるヌーメノンは、感覚的な現象であるフェノメノンと、厳しく区別しなければならない。神の問題は、人間の感性的な認識を超えた領域にあるのだ。それをデカルトは、あたかも人間の認識能力が神の存在を証明できるかのようなことをいったために、あのパスカルの怒りをかったのであった。パスカルにとっても、世の中には人間の認識能力をこえた領域があるのであって、そうした領域に関すること、たとえば神の問題は、人間の理性によっては測ることができないのである。

こうした議論を踏まえてカントはいう。「知性は感性によって制約されるのではなく、物自体を(現象とみなすのではなく)、<叡智的な存在>と名付けることによって、むしろ感性を制約するのである」




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