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理性の誤謬推論:カントの「心」


カントが「純粋な理性の誤謬推論」と呼んだものは、「心」の問題についての人間の誤った考え方を批判するための概念装置である。「心」とは人間の精神の働きを統一しているものとして、我々人間にとっての根本的な理念であるといえるものなのだが、この理念に実在性を付与して、「心」が恰も自立した存在者としての実体であるかに考えることから、誤謬が生じる。カントはそうした誤謬をもたらす推論を「誤謬推論」と名づけたわけである。

「心」を実体とすることから、心=霊魂の不滅、心の人格性、実体としての精神と身体との相互関係といった様々な問題が生まれてくるが、それらもみな理性の誤謬推論がもたらす偽の問題なのであり、心の実体性が否定されれば、いづれも根拠を失う。

それ故、「心」の問題についてのカントの議論の眼目は、「心」の実体性を否定することにある。カントは、デカルトの「考えるわたし」にひそむ問題点を暴くことによって、この課題を解決しようとした。したがって、カントの「心」の議論はデカルト批判となっている。

デカルトは、「わたしは考える」から出発して、「考えるわたし」というものの明証性を根拠にして、思考する存在者としての心の実体性を主張したわけだが、その理屈の底には、次のような誤謬推論があるとカントは言う。

<大前提>主語(ズプイェクト)としてしか考えられないものは、主体(ズプイェクト)としてしか現存せず、だからそれは実体である。
<小前提>ところで思考する存在者は、思考する存在者としては主体としてしか考えられない。
<結論>だから思考する存在者は主体であり、実体として現存する。(この節、中山元訳、以下同じ)

この推論が誤謬である理由は、大前提で述べられている事と小前提で述べられている事とが相違していることにあるとカントは言う。

「この推論の大前提に示されている存在者は、あらゆる意味において<思考されうる>存在者であり、だからまた直感において与えられうるとおりに思考されうる存在者でもある。ところが小前提であげられている存在者は、みずからを主体として、思考と意識の統一にかかわるものとしてだけ考えられているのであり、この存在者は、思考の客体として与えられる直感の<対象としての>存在者とは考えられていない。だから媒介概念の詭弁によって、すなわち一つの誤謬推論によって、結論が引き出されているのである」

この部分をわかりやすく整理してみよう。上記の三段論法は、
<大前提>主体は実体である
<小前提>思考する存在者は主体である
<結論>したがって思考する存在者は実体である、
といいかえることができるが、この推論が成立するためには、大前提で述べられている「主体」と小前提で述べられている「主体」とが同じ意味でなければならない。ところが、ここではそうなってはおらず、同じ「主体」という言葉でも、大前提と小前提とでは、異なった意味を持っている、したがってこの推論は成立しない、そうカントはいっているわけである。

大前提でいっている「主体」とは、経験的な客体となるような客観的な存在者である。ところが小前提でいっている「主体」とは、思考に伴っている自己意識のことであり、あくまでも主観的なものである。このふたつの異なったものを同一のレベルで結びつけた結果、「心は実体である」という誤謬推論が生じたというわけなのだ。

心の実体性が否定されれば、心=霊魂の不滅に関する議論はナンセンスになるし、心身の相互関係を巡るデカルトの議論も凡そ的を外れている事となる。それらはいづれも、心が実体であることを前提とした議論だからだ。

ところで、心が実体でないとすれば、心とはいったい何者なのか、そういう疑問が出てきそうである。カントにとっては、そういう疑問が出てくること自体、心を実体と思いたがる精神の偏向性にもとづくものなのだが、そうはいっても、心は人間にとってあまりにも身近なものであるから、その本質をめぐる我々人間の問いにはキリと言うものがないわけである。

カントは、人間にとって心と見えるのは、人間の意識のはたらきそのものなのであり、それは、あるときには、感性の働きとして現れたり、知性による概念化の作用として現れたり、理性による推論と言うかたちで現れたりする。しかし、そうした働きの全体を通じて、我々人間の意識というものは、何も実体として位置付けなくとも、働き方の度合いに差が生じるわけではないのである。であるから、心の実体性にこだわる必要はない、とカントはいうのだ。

とはいっても、心の実体性を否定することから、唯物論とか観念論といった蒙昧な見解が生じやすい危険性について、カントは注目していた。

唯物論は、心と言うものは物質の働きに過ぎないのであり、物質こそが実体であり心の働きはその属性なのだと考える。それに対して観念論は、心にも物質にも実体性を認めない、すべては意識の中で展開される観念の産物なのだとする見解である。この二つの見解は、方向性は全く逆であるが、心の実体性を否定する点では共通しているのである。

カントは、人間の理性が「心」を理念としてとらえること自体は、人間の本姓に潜んだ自然な傾向だとして、これを認めていた。問題は、理念に過ぎないものを実在と取り違えることなのである。しかし、理念をあくまでも理念としてとらえ、それを実在と勘違いしない限りは、理念にはそれにふさわしい役割がある。つまり、人間の思考や行動に方向性を与えるという役割である。人間と言うものは、ただだらだらと生きているだけの存在にはとどまらない。人間に相応しい理念をかかげ、それを導きの糸として前向きに生きようとするのが、人間らしい人間なのである。

プラトンのイデアもまた、人間にとっては、そのようなものであった。

それ故、人間が理念を掲げるのは崇高なことだ。しかし理念には理念本来の場を用意してやる必要がある。カントにとっては、それが理性のトポロジーというべきものなのだ。




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