知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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キルケゴールにとっての神の存在証明


キルケゴールは「哲学的断片」の一節で、「一般に、何かが存在することを証明しようということは困難なことである」(矢内原伊作訳、以下同じ)と言っている。これは、神が疑いもなく存在することを証明しようとしてやっきになっている人々を念頭においた言葉である。キルケゴールにとって、そういう人々の思惑は理解できないのであった。

神ならずとも、何かが存在することを証明しようとするのは、非常に困難である。たとえば、私が小石の存在を証明しようとする。しかし、その時「私は小石が存在していることを証明するのではない。現に存在するあるものが小石であることを証明するのである」

同じようなことは歴史上の人物についてもいえる。たとえばナポレオン。そのナポレオンについて、「もしもナポレオンの行為からナポレオンの存在を証明しようとする者があるとすれば、これはきわめて奇妙なことではなかろうか。なぜかといえば、彼の存在は彼の行為を説明するであろうが、彼の行為は彼の存在を証明はしないからである・・・ある行為をナポレオンの行為であると私が言う場合には彼の存在の証明はすでに無用に帰している、というのはすでに私は彼の名前を口にしているのであるから」

この言説の意味は、なにかの存在を証明しようとしてそのものの名前を出すということは、すでにそのものの存在を前提にしている証拠である、ということである。同じことは神についてもいえる。神の存在を証明しようとして神の名前を口に出すものは、すでに神の存在を前提にしているのである。「かくして神の存在の証明を始めることができるのはもともと神への信頼があればこそである」ということになる。

それゆえ、我々はなにも神の存在の証明を急ぐ必要はないのだ。「われわれは何も、自分のためか神のためかあるいは何か他のもののためか知らないが、一刻も早く存在を証明せずには承知しない連中のように急ぐ必要は少しもないのである」 何故なら、わたしが証明に成功しようが、失敗しようが、神の存在は揺らがないからだ。何故なら私にとって、神の存在はすでに前提にされていることだからだ。

これは非常に巧妙な論理のように見える。だが果してそのとおりか。

たしかに小石の存在を証明しようとするものは、小石というなにものかが存在していることを証明するわけではなく、現に目の前に存在しているなにものかが小石であることを証明するに過ぎないであろう。小石は現に存在して、消え去ることはないのだから、わたしが存在の証明をさぼったからといって、小石の存在があやうくなるわけではない。小石は私の思惑とは無関係に存在し続ける。だが神もそのように、わたしの思惑とは無関係に存在するのだろうか。

これは、小石の存在と神の存在は、同一平面上で論じられるようなものかという問題に関わる。わたしは小石の存在を疑いもなく確かめることが出来るし、それが存在しているという確信を他人と共有することもできる。こういう事態を指して我々は、小石の存在は客観的事実であると言明する。だとすると、神もまた客観的事実として存在する、といえるのだろうか。

もっとも、キルケゴールは、そういうことはいっていない。神が存在するのは動かしがたい前提であるが、だからといって小石と同じような意味で、客観的に存在しているとはいえない。では、どのように存在しているのか。

神は私の信念のなかに存在しているのである。神の存在は、客観的な事実として知的にとらえられるのではなく。私の信念のありかたとして激情を以てとらえられる。したがって私の激情が消滅するところでは、神の存在もまた消滅する。あくまでもその神とは、私にとっての神であるのだ。

それ故、伝統的な神の存在証明は、二重の意味で欺瞞的だということになる。ひとつには、「存在の証明などをほとんど必要としないものを証明するに」すぎないからであり、もうひとつには、そもそも私の中に、つまり単独の個人の中にしか存在しないものを、あかたも客観的事実として存在するかの如くに言明しようとするからである。

では私の信念の中に神が存在するとして、私はそれをどのようにして知ったのであろうか、という疑問が残る。何故私は神の存在についての信念を持つに至り、他の人々(たとえば日本人である我々)はそうではないのか。

それは、神のほうからの人間への働きかけがあるからだとキルケゴールは考える。人間は自分の力では神の方へと向かって上昇する能力はない、それ故神の方で人間(キリスト)の姿となって人間の世界へ下降するというのである。だがすべての人間が神からの働きかけに応えるわけではない。応えるのはごく一部の人に限られる。そういう人たちをキルケゴールは単独者と呼んだ。人類という普遍的な範疇のひとつの例としてではなく、かけがえのない単独者として直接神と向き合う、そういう姿勢を取ることが出来る者だけが、神からの働き掛けに応えることが出来る、そうキルケゴールは考えるのである。

とすると、神とは人間との関係においてのみ意味を持つ、ごく人間的な存在ということにならないだろうか。キルケゴールの言うように、神は人間の信念のなかにのみ存在するのであれば、そういう信念を持たない人間にとっては存在することが無く、まして人間以外のものにとっては、存在以前の段階、存在さえも問題にならないような、つまりどうでもよいようなものに成り下がりはしないだろうか。

いや、そんな心配は無用だ、とキルケゴールはいうであろう。存在することと、その存在が誰かによって認識されることとは別問題だ、という理屈で。誰かによって認識されないからと言って、神の存在が成り立たないという理屈はない。神は存在し、かつ人間に対して働きかける、人間のなかにはその働きかけに応える者もいれば、応えないものもいる。だからといって、神の存在にとっていかほどの意味があろうか。神は、真に自分を必要とするものにとっては、常に存在し続ける。それでいいではないか、と。




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