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場所の論理:西田幾多郎を読む


西田幾多郎の場所論のわかりにくいところは、そもそもそれを認識論・存在論との関連において持ち出しておきながら、具体的な説明の段になると、論理学のタームを用いていることだ。論理学というのは、たしかにアリストテレスの時代に存在の範疇を論じたということもあったが、基本的には人間の判断を取り扱うものだ。それを以て、判断とは次元のことなる「場所」というような概念の内実を説明しようとするのだから、論旨にどうも無理が生じる。

西田も、論理学が人間の判断について論じるものであることについては、当然のこととして認めている。判断のもっとも典型的なものは包摂判断と呼ばれるもので、特殊を一般に包摂させる形の判断である。たとえば、「バラは花である」という場合、主語の「バラ」は特殊で、それは述語の「花」という一般に包摂されるという関係を表している。現代の記号論理学は、この包摂関係を形式的な記号で体系的に展開してみせたものだ。

包摂判断については、アリストテレスも取り上げている。そして、包摂判断において、主語となって述語とならない究極のものを「個物」とし、述語となって主語とならない究極のものを「カテゴリー」と位置づけたわけだ。世界のすべての個物や、また特殊的なものは、すべていずれかのカテゴリーに包摂されるというのがアリストテレスの考えだった。それ故、アリストテレスにおいては、認識論と存在論および論理学が接続していたということができる。西田は、そんなアリストテレスの学問的な姿勢を自分の議論の参考にしたのだろう。

西田もアリストテレス同様、主語となって述語とならぬもの、述語となって主語とならぬものについて議論している。西田のユニークなところは、述語となって主語とならぬ究極的な述語面についての議論だ。アリストテレスがそれをカテゴリーだというところを、西田はさらにその先に踏み込む。カテゴリーというのは、複数ある。だからそれは究極のものとはいえない。究極的といえるのは、ただ一つしかないものに限る。では、述語となって主語とならない究極的な述語面とは何か、西田はそれを、自分がいうところの「場所」だとするのである。

しかし場所とは、「意識の野」と呼ばれることもあるように、人間の意識現象とかかわりのある概念であったはずだ。それがなぜ、論理学上のある種のカテゴリーとも言うべき「究極の述語」とか「究極の一般者」とかいうことになるのか。ここに「場所」を理解する上での最初の困難があるわけである。

ある種の気の利いた思想家なら、ここで究極的な述語といわれるものを、そのまま「究極的な述語」という言葉のままで済ますか、あるいは「存在」とか「有」とかいった取り留めのない言葉で済ますかもしれない。しかし西田にはそれは、欺瞞的態度として映ったのだろう。やはり「究極的な述語」とは「場所」でなければならないのだ。

場所とは意識にとって相関的なものではあるが、西田はその意識なるものを個人的な限定された意識としてのみ捉えていたわけではない。人類全体の意識を包摂するような一般者としての意識(それを西田は先験的意識という)としても捉えていたし、そればかりか、自然的世界や歴史的世界が生成する場所としても捉えていた。つまり、すべての世界が存在しかつ生成する舞台として、「場所」というものを考えていたわけである。問題は、その舞台としての場所が、なぜ論理的な一般者というものと結びつくのかということだ。

論理的な包摂関係にあっては、SはPであるという場合、特殊としてのSが一般としてのPに包摂されると考える。この場合の包摂とは、論理的な関係であり実在とはなんのかかわりもないと考えるべきである。なぜなら、この場合の特殊とはあくまでも、実在の一部を切り取った属性のようなものに過ぎないからだ。だから、その属性に関して、SはPに包摂されるということは、SはPの一つの例に過ぎないということを意味する。

ところが西田の場合には、この両者の関係が論理的な関係にとどまらず、実在的な関係をも内在させているフシがある。論理的にのみ考えれば、SはPであるとは、SはPに属性の面で包摂される関係にあるとしかいえないところを、西田は、SはPが自己限定したものである、というような言い方をする。この言い方は、実在としてのPが自己を限定することで、実在としてのSを産み出すということを意味する。つまり両者の関係が論理的な関係を超えて、実在的な関係になっているわけである。であるからこそ西田は、一般者としての場所が自己限定することによって、さまざまな特殊世界が生成する、というようなことを言えるわけである。

これは、論理学が持つ形式論理性からの逸脱だと言わざるを得ない。このような逸脱は、「述語を主語とした判断」というような言い方を西田がするときに、もっと際立って見える。述語が主語になるというのは論理の転倒ではないのか。論理の飛躍ならまだわからないでもないが、転倒した論理では逆立ちした世界しか見えてこないだろう。

この辺についての西田の言葉を引用しておくと、「一般的なるものが特殊的なるものを含むと考えるにも、一般的なるものが自己自身を超越すると考えなければならぬであろう・・・右の如く考えるならば、判断において真に主語となるものは特殊なるものではなく、かえって一般的なるものである・・・判断とは一般的なるものの自己限定ということになる。一般的なるものはすべて具体的一般者でなければならぬ。厳密には抽象的一般者なるものはない」(論文「場所」から)というような具合である。どうも逆立ちした議論のように聞こえる。

西田がこんなことを言い出すのには、彼なりの必然性がある。西田にとって述語の究極的なものは場所であった。その場所というのは、すべての特殊的世界が生成するところである。場所は単に個別がそこにおいてある場所であるにとどまらず、個別を産み出すものでもある。というのは場所が自己限定することで、特殊的世界やら個別的存在者やらが生まれるからである。すべてを産み出すものは論理的には主語の立場に立たなければならない。「我これを産む」という言説の「我」に相当するものは、西田にとっては「場所」にほかならないのであるから。

ところで、我々個人の個別的意識も、場所が自己限定したものである。私の個別的意識も、汝の個別的意識も、同じ一つの場所が自己限定したものである限り、どこかで通じ合っている。というより我々一人一人の個別的な存在は、同じ一つの大きな存在である「場所」の限定されたあり方なのである。だから、我々人間は、個人同士が相互に理解しあえるようにできている、そう西田は言うわけなのだ。個人同士ではない。私個人の存在をとってみても、昨日の私と今日の私が同じ私だと確信できるのは、どちらの私ももともとの私の限定されたものだからである。そしてその限定された私というものは、さらに「場所」によって限定されたものなのである。

というわけで、このあたりの西田の議論を聞いていると、まるでスピノザのこだまを聞かされているような気にもなる。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015
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