知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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述語論理:中村雄二郎の西田幾多郎論


西田幾多郎の思考のわかりづらさの要因を「述語論理」に求め、それが正常人の思考と異なる分裂病患者の思考に似ていると看破したのは、洒落た哲学的エッセイスト中村雄二郎である。中村はこのおかげで、西田の崇拝者たちから、日本の偉大な思想家を狂人扱いするのかと非難されたそうである。

中村はまず、述語論理とはいかなるものか、次のような例を挙げて説明している。(中村「西田幾多郎」第三章、3)

私は処女です
聖母マリアは処女です
私は聖母マリアです

これが通常の三段論法と異なっていることは、通常の三段論法が、大前提、小前提ともに主語の同一性を前提にしているのに対して、これは述語の同一性を前提にしている点である。このように、主語ではなく述語の同一性を前提とする論理を中村は「述語論理」というのであるが、それが別に誤った論理だとは言っていない。誤っているのではなく、通常の思考から多少ずれているだけだと言うのだ。

こうした述語論理が精神分裂病者の思考に見られることを中村は、精神医学者のフォン・ド・マルスやシルヴァーノ・アリエティを援用しながら説明している。述語倫理は述語の同一性にもとづいて、さまざまなものを結びつける。したがって、通常の論理においては、主語が固定しているので限られた推論しかできないところを、述語論理においては、次から次へと連想が広がっていく。

このような自由な論理の展開の仕方をアリエティは<古論理>と名づけた。古論理もまた人間の論理的な思考のひとつの重要なパターンとして、とりわけ芸術などに大きな役割を果たす。というのも、古論理的な思考は、象徴作用や創造のメカニズムの中にも見出されるからだ。

では、西田の思考様式のどのようなところが述語論理あるいは古論理にもとづいていると言えるのか。中村はそのことについて、自分から具体的には指摘していない。ただ、精神病理学者木村敏の説を援用しているだけである。木村は分裂病者の思考の特徴を、個物を個物として周囲のものから明瞭に区別できないことに求め、その結果個物を主語とした形式論理的な発想ができないのだとした。このことから、個物がもっている遇有的な属性が常に表面に出てきて、対象はそれら遇有的な属性の集まりだとして捉えられる。そうした集まりは非常に不安定なものであるから、分裂病者の思考も安定した像を結ぶことがない。この、述語面にもとづいた分裂病者の思考のあり方が、-西田の「場所」の論理とよく似ていると木村は言うのである。こう言った上で木村は、西田と分裂病者の違いを、西田が通常の論理と述語の論理とを使い分けることができるのに対して、分裂病者が述語の論理のみにとらわれていることをあげるのだが、それには中村も同意しているようだ。

ところで、述語論理が象徴作用や創造のメカニズムに結びついていることは、上で指摘したとおりだ。ある対象について、それが持っている属性がきっかけで、同じ属性を持っているほかの対象へと次から次へと連想が展開するというのは、象徴作用の基本的なメカニズムだ。これは、述語論理のひとつの展開と言ってよい。

それと並んで、対象の或る属性がきっかけになって、そこから隠喩的なイメージが展開していくこともある。隠喩は芸術を支えるもっとも重要な要素といえるが、それもまた述語論理のひとつの展開したものだと考えられる。

また創造とは、無から有を産み出すことではなく、異なったものを組み合わせることで新たなイメージを喚起するものだと言われるが、この組み合わせも、メチャクチャに行ったのでは、それこそメチャクチャなものしか出来上がらない。メチャクチャに陥らないためには、組み合わせ方に一定の原理がなければならない。述語論理はその有力な原理となりうるものだ。つまり異なったように見えながら、どこかに共通するものがあるようなものを組み合わせることである。この場合の、どこか共通するものというのが、述語の共通性なのだと考えられる。

述語論理の最大の利点は、連想が自由に働くことだ。述語が共通していれば、どのようなものでも結びつくことができる。したがって連想は無限に展開すると言ってよい。その連想作用が想像力の源になることは、上述したとおりだが、しかし連想は厳密な思考にとってはマイナスに働くことが多い。というよりは、厳密な思考にとっては、敵視すべき悪癖だといってもよい。なぜなら厳密な思考とは、論ずべき対象について、それを主語としてきっちりと位置づけた上で、それのもつさまざまな属性や、ほかの対象物との関連について、ひとつひとつ論理的に展開していくことが求められるからだ。述語論理は、ひとつひとつ論理的どころか、区別を超えて自由に思考を羽ばたかせることなのだ。

西田の思考様式には、どうもこの区別を超えた自由なところ、融通無碍なところがある。ひとつひとつ論理を積み重ねていくのではなく、ある命題から別の命題へと、共通の属性だけを手掛かりに、無限定に飛躍していくところがある。その飛躍が、西田の文章をわかりにくくしている原因ではないか。

中村雄二郎の西田論を取り上げるつもりが、いつの間にか筆者の西田観の披露に及んでしまった。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015
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