知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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絶対矛盾的自己同一:西田幾多郎晩年のキーワード


西田幾多郎の晩年のキーワードのひとつに「絶対矛盾的自己同一」がある。西田の哲学タームには意味の判然しないのが多いのだが、中でもこの「絶対矛盾的自己同一」という言葉は飛び切り理解しづらい。第一、「絶対矛盾的」という言葉からしてわからない。矛盾と言うのは、ある事柄がAでもあり、かつ非Aでもあることは成り立たないということを指す。あるいはAとBとが同時には成り立たないような事態を指す。いづれにしても、一つの事柄の二つの異なった在り方の相対的な関係について言われることだ。それに西田は「絶対」という形容詞をかぶせる。これは形容矛盾ではないのか。

この「絶対矛盾的」という言葉が「自己同一」にかぶされると、事態はもっとこんがらがってくる。「自己同一」というのは論理学で言う「自同律」を別の言葉で言い換えたものだ。それは、ある事柄がそれ自身と矛盾した関係に陥っていないということを意味する。Aは非Aではない、Aそれ自身である、つまりAは自分自身と矛盾した関係にない、というのが「自己同一」という言葉の論理的な内容である。それを西田は、「絶対矛盾的自己同一」という言葉を使うことで、自己同一と自己矛盾とを、それも絶対的な形で、いっしょくたにしている、どうもそのように受け取れる。

筆者のこのような疑念に対しては、それは考え過ぎだという異見もあるようだ。そう七面倒くさく考えないで、もっとおおらかに構え、とりあえず西田の言い分を聞こうではないかというわけであろう。西田学者の小坂国継などは、「絶対矛盾的自己同一」と言う言葉を構成要素に分解するから筆者のような疑問が生じるので、この言葉を全体として一つの言葉として受け取ればよいのだという趣旨のことを言っている。つまり「絶対矛盾的自己同一」をいくつかの部分からなる合成語としてではなく、不可分の単語として受け取れという。だが、これに対しては、西田自身が「絶対矛盾的自己同一」とあわせて「矛盾的自己同一」という言葉を使っている。つまり西田自身が「絶対矛盾的自己同一」を部分からなる合成語、或は熟語として用いているわけである。

この「絶対矛盾的自己同一」という言葉の意味がよく分からないのは、西田に大きな責任がある、とはっきり言えるのではないか。この言葉を主題的に論じた論文「絶対矛盾的自己同一」においても、西田はこの言葉を、定義抜きでいきなり持ち出している。あたかも読者がこの言葉の内容について既に十分な認識をもっていると前提しているかのように。

ある概念を、定義抜きでいきなり持ちだし、それにもとづいて一定の議論を展開していくというやり方は、西田に固有のものではなく、日本人の思考によく見られるところだ。議論の内容によってはそれでも不自然ではないという場合もある。だが、西田は哲学者を標榜し、その議論は哲学的な議論であるということを自ら明言している。その西田にして、無前提のものを前提にするこのようなやり方は、哲学的とはいえないのではないか。

ともあれ、上記論文で西田が、「絶対矛盾的自己同一」という言葉を最初に持ち出している部分を見てみよう。

「物が何処までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。世界の現実は何処までも多の一でなければならない。個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである」(西田「絶対矛盾的自己同一」)

ちなみにこの部分は、論文の最初のパラグラフで出て来るものである。つまり論文の冒頭部分といってよい。その冒頭部分でこの論文のテーマである「絶対矛盾的自己同一」についてこのように言及しているわけである。おわかりのように西田は、この言葉を定義しようなどというつもりは毛頭もない。この言葉は、西田と読者の間ではすでに了解済みのものとして前提されている。西田とこの言葉の意味を共有できる者だけが、以後この論文を読み進む資格があるのだと言わんばかりだ。

この文章の前段で言われていることも、西田哲学に精通していない者にとっては、何が何だかわからないというのが正直のところだろう。ここでキーとなるのは「多と一」である。ありていに言えば、多というのはもろもろの諸個人、一というのは世界全体の統一的な在り方のことを指す。西田はここで、個人と世界とは相互限定的な関係にあるのだと言っているわけである。だから、いづれか一面だけを強調してはいけない。たとえば諸個人を軽視して世界全体ばかりを強調すれば、働くものというものがなくなり、世界は静止的なものとなってしまう。ここで働くものというのは個人のことを指す。個人の働きのない世界は、単なる静止的な世界になる、そういう意味のことを西田は言っているわけである。

この「多と一」で象徴されるような、全体と部分、世界と個人との相互限定的な関係のあり方を西田は「絶対矛盾的自己同一」という言葉で表現しているようだ、ということが、とりあえず上の文章からは伝わってくる。そう押さえて見れば、この言葉が「弁証法的一般者」や「行為的直観」と同じような問題意識に立っているのだということがわかる。つまり西田は、このような言葉群を用いて、個人と世界との関係を相互限定的なものとして、ダイナミックに捉えようという問題意識を持っていたと、とりあえずいうことができよう。

「絶対矛盾的自己同一」のもうひとつの例として西田が持ち出しているのが時間である。時間について西田は、「過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界が矛盾的自己同一的に一つの現在として形成し行く」と述べている。細かい議論を省いて言うと、過去と未来という相互に否定的なものが結びつくから矛盾であり、矛盾の作用として生まれる現在とは「矛盾的自己同一的」ということのようだ。なお西田はこのコンテクストでは、「絶対」を省いて単に「矛盾的自己同一的」と言っているが、概念としては同じものと考えてよい。

多と一の相互限定、過去と未来の相互否定の議論を踏まえて西田は、この世界をライプニッツのモナドを援用しながら説明している。すなわち、「かくいうことは、かかる世界は一面にライプニッツのモナドの世界の如く何処までも自己自身を限定する無数なる個物の相互否定的結合の世界と考えられねばならないということである。モナドは何処までも自己自身の内から動いて行く、現在が過去を負い未来を孕む一つの時間的連続である、一つの世界である。しかしかかる個物と世界との関係は、結局ライプニッツのいう如く表出即表現ということのほかにない。モナドが世界を映すと共にペルスペクティーフの一観点である。かかる世界は多と一との絶対矛盾的自己同一として、逆に一つの世界が無数に自己自身を表現するということができる」(同上)

ここで西田が、ライプニッツにしたがってモナドと呼んでいるのは、個々人の意識のことである。世界はそうした諸個人の意識が相互否定的に結合してできるものである。その半面また、一人ひとりの個人の意識そのものは世界を映し出す鏡のようなものとしてある。これを西田自身の言葉で言えば、多即一、一即他である。

だから、西田にとって世界とは、「絶対矛盾的自己同一」としてしかありえないものなのだ。




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