知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ルソーの学問芸術論


ルソーの処女作である「学問芸術論」は、彼の文明観が劇的な形で表れている作品だ。劇的という意味は、それが読者の理性というよりも、感性に訴えるということを含意している。実際一読してわかるように、この論文は、論理によって構成展開されているというより、直感によってもたらされたアイデアを、隠喩を多用して説明している、あるいは修飾しているにすぎない。

では、ルソーが直感的に感得したアイデアとは何か。それは文明の進歩は人間性の堕落をもたらすというものだった。つまり人間というものは、原始の自然な状態にあっては本来自由で、余分な知識を持つことがなかっただけ単純で幸福だった。ところが今日の文明化された人間を見よ、彼等は自由を失って束縛の中で生き、お上品さと称して堕落した生活を送っている。双方を対比して良く考えてみれば、文明の進歩が人間性の退化を意味しているのは明らかではないか、というわけである。

つまりルソーは根源的状態としての原始の自然と堕落した状態としての今日の文明とを対立させ、原始の自然状態こそが人間本来のあるべき姿なのだと訴えるのである。なぜそうなのか、それについては、彼は論理的説明を行ってはいない。彼が今日の文明を攻撃するときには、それが堕落しているからだという理由が述べられるが、そもそも彼が言う文明という概念自体に、この"堕落している"という属性が含まれている。つまり先取りの誤謬を犯しているわけである。これは論理というより直観あるいは憶断と称すべきものである。

ともあれ、原始の自然状態に対するルソーのこだわりは、彼の思想を貫く太い支柱となった。人間が自然の幸福な状態から転げ落ちてますます堕落していくという考えは、人間不平等起源論の中でさらに詳細に跡付けられ、自然状態への賛歌はエミールの中で繰り返されることになる。

この著作では、その堕落の様相を、学問芸術との関連で述べているわけだ。

ルソーはいう、「学問、文学、芸術は、政府や法律ほど専制的ではありませんが、恐らくいっそう強力に、人間を縛っている鉄鎖を花輪で飾り、人生の目的と思われる人間の生まれながらの自由の感情を押し殺し、人間に隷従状態を好ませるようにし、いわゆる文化人を作り上げました」(前川貞次郎訳、以下同じ)

これが、「学問や芸術の復興は、習俗を純化するのに役立ったでしょうか、それとも習俗を腐敗させるのに役立ったのでしょうか」という問いかけへの、最初の包括的な答えである。ルソーはディジョンのアカデミーの懸賞論文の課題として出されたこの問いかけに、否定的に応えたわけなのだ。つまり学問芸術の振興は習俗つまり人間社会のあり方を腐敗させた、「我々の学問と芸術が完成に近づくにつれて、我々の魂は腐敗したのです」というわけである。

学問が我々を腐敗させるのは、それが我々を傲慢にするからであり、芸術が我々を腐敗させるのは、それが我々にもったいぶった態度をとらせるようになるからだという。「学問芸術の光が地平に上るにつれて、徳が逃げていくのが見られます。これと同じ現象は、あらゆる時代、あらゆる場所においてみられます」エジプトにしろ、ギリシャやローマにしろ、学問芸術が盛んになるのと比例して人間性は腐敗していったことが述べられる。「我々が味わっていた幸福な無知の状態から抜け出るために、我々が行った傲慢な努力の天罰は、いつの時代でも、奢侈、頽廃、奴隷状態でした」

論文の第二部では、学問芸術がもたらす忌まわしい結果について延々とした説明がある。奢侈、頽廃、奴隷状態の具体的な様相である。学問芸術は徳を養うという名目で、これらの腐敗を蔓延させている。だが人間にとっての真の徳とは、学問芸術によってもたらされるものではなく、人間自身の中に本来存在しているものである。人間は学問芸術に訴える前に、自分自身の内面に耳を傾ければよいのだ。

ルソーの結語は次のようなものだ。「おお、徳よ! お前を知るには多くの苦労と道具とが必要だろうか。お前の原則はすべての人の心の中に刻み込まれていはしないのか。お前の掟を学ぶには、自分自身の中にかえり、情念を静めて自己の良心の声に耳を傾けるだけでは十分ではないのか。ここにこそ真の哲学がある。我々はこれに、満足することを知ろう」

こうしてみれば、この論文は強烈な反文明論を展開したということになる。単なる文明批判なら、そんなに珍しいことではないし、まして文明の現状に異議を申し立てることなら、誰でもが行っていることだ。批判とは発展の原動力なのだから、それは望ましい行為だといえる。

だがルソーがここで行ったのは、文明のトータルな否定であった。彼は人類の歴史の中で文明の果たした役割を全面的に否定するばかりか、それが人間性を腐敗させたとまで言う。人間はこんな文明などかなぐり捨てて、原始の状態にかえるべきなのだ。

ルソーの主張は余りにも浮世離れし、またあまりにも過激だった。あなたのいうことを真にうけたら、わたしは四足で歩くことを好むようになるだろう」批判者たちは一様にこういって、ルソーの反文明のナンセンスを攻撃したものだ。

ルソーのこの主張が同時代人にとってショッキングだったのは、その独特のレトリックにもかかわりがある。ルソーは論理を積み重ねて一つ一つ論旨を展開するというやり方を省き、いきなり二項対立図式を持ち込んで、そのどちらかを選択するように読者にせまるやり方を取る。図式そのものはルソーがいわば恣意的に持ち込んだものだ。だから読者はそれを全面的に排除しない限り、ルソーのレトリックに付き合わされるはめになる。問いかけられたものは、論証を踏むことなくいきなり結論に導かれる。つまり理屈ではなく感情なのだ、ルソーが自分の武器にしているものは、そう考えたくもなる。

先ほども触れたように、この著作は以後のルソーの思想の出発点となるものだ。彼の思想には、自然的人間観というべきものと、一般意思の概念を中心にした民主主義の政治思想とが、二本の柱として認められるが、学問芸術論ではそのうちの自然的な人間観の基礎ともいうべき考え方が提示されているわけである。





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