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人間不平等起源論:ルソーの自然人


人間不平等起源論のテーマは自然人である。ルソーは処女作の「学問・芸術論」の中で、学問や芸術といった文明の産物がいかに人間を堕落させたかについて論じたのであったが、では堕落する以前の人間はどんな状態であったのか、詳細に述べることはなかった。人間不平等起源論は、文明に汚染される以前の、つまり堕落する以前の、純粋に自然な状態における人間について述べるのだ。ルソーはその人間を自然人と名付け、人間にとっての本来的なあり方ととらえている。

ルソーはこの自然人を、歴史的に実在したものとはいっていない。あくまでも仮説として、物事の本性に迫っていくうえでの想定に過ぎないといっている。つまりさまざまな資料に基づいて、過去に存在した自然人の特徴を帰納的に再現しているわけではなく、我々文明人にまとわりついている様々な社会的属性を捨象していって、どんな文明にも毒されていない純粋に自然な状態を抽出しているわけである。したがって高度に抽象的で操作的な概念であるわけだ。

ルソーは文明からもっとも離れた、したがって野生状態にもっとも近い自然人のプロフィールを描く。そのような人間は、動物とあまり異ならないだろう。彼らは動物同様本能に従って行動し、本能で足りないところは理性で補いながら生きていくだろう。彼らの最大の目的は生存ということであり、生きていくのに必要な範囲を超えて欲することはない。自然人は互いに自立して、かつ平等であり、完全に自由な状態にあった。だから人が人を支配し、従属させるということもない。自然状態にあっては、人は自分だけで満ち足りていられるからである。

自然人の行動を律しているのは、自己愛である。彼は自分の生存が可能であるように、さまざまな困難を克服する。その自分への配慮が自己愛という形をとるわけだ。この自己愛が他の人に向かうとき、そこに憐憫の情が生じる。憐憫とは自己の延長としての家族や友人に向けられた、生存への本能の社会的な現れともいえる。

このように、ルソーの自然人は、我々現代に生きている社会人とは対極の存在である。つまり社会人の属性と考えられるものをすべてはぎ取って、最後に残った人間性の核ともいえるもの、それをそなえたものを自然人としてとらえるわけだ。しかも、このようにとらえられた自然人はプラスイメージでとらえられている。ルソーにとって文明は悪であり、人間を堕落させるものなのだから、文明以前の自然な状態に回帰することこそ求められるあり方なのだ。

この点で、同じく人間の自然状態を仮定したホッブスとは方向が異なる。ホッブスの自然状態も、操作的な概念であるが、それは文明がそこから始まる端緒として、したがって文明を欠いたものとして、不足としてとらえる。ホッブスにとって文明は人類の進化をもたらすのだ。ところがルソーにとって文明は、進化どころか、堕落をもたらすものに過ぎない。ホッブスが未来に向けての人類の進化を説いているのに対して、ルソーは、たとえ操作的な概念としてではあれ、過去の理想状態にむけて回帰することを主張しているわけである。

では人間を堕落させる文明とは、どのようにして始まったのか。

「ある土地に囲いをして<これはおれのものだ>と言うことを思いつき、人々がそれを信ずるほど単純なのを見出した最初の人間が、政治社会の真の創立者だった」(小林善彦訳)

ルソーは人間が自然状態をすてて、政治社会を創立したことに、堕落の由来を求めた。政治社会こそが、支配と服従、もてる者と持たざるものの対立を持ち込み、人々の間を引き裂き、不平等を持ち込んだ。その根本的な原因は、土地の所有に始まる私有財産への執着だ。人々は自分の私有財産を守るいっぽう、あわよくば他人の私有財産を横領しようと企む。人々は次第に強欲かつ邪悪になり、表面はおとなしく装って、内面では他人をだまそうと虎視眈々となる、ルソーの言葉によれば、存在と外観が分離する。

ルソーはこれこそがホッブスのいう戦争状態だと考える。戦争状態は政治社会が確立する以前の自然状態のあり方ではなく、むしろ人間が政治社会を作った結果現れるものなのだ。

人間が政治社会を作ったのは、土地や財産の所有を保証し、みんなの安全を守るため、というのが表向きの理由とされた。しかし実際には、守られているのは富者の財産だけであり、財産を持たぬものは、富者によって奴隷化され、抑圧されるばかりなのだ、とルソーは言う。

不平等の行きつく先としての人間の奴隷化ということについて、これを法的に有効なものとして、擁護する学者たちがいる。それに対してルソーは厳しく反論する。

たとえば、プーフェンドルフは、「人が合意または契約によって自分の財産を他人に譲渡するのと全く同じように、だれかのために自分の自由を捨てることもできる」と主張しているが、それは間違った意見だという。たしかに「人間は自分の所有しているものを、好きなように処分することはできる。しかし生命や自由のように、自然の本質的な贈り物については同じようにはいかない」なぜなら、他人に自分の生命や自由を差し出したら、その人はもはや自由な人間ではなくなる、それどころか人間としての存在自体が消滅してしまう。ましてや自分の子どもを奴隷にするわけにはいかない、どんな親にも、子どもの命を消滅させたり、自由を取り上げたりする権利はないのである。

不平等の制度化は三段階で完成に至る、とルソーはいう。第一段階では法と所有権が確立され、富者と貧者への分裂の状態が正当化される。第二段階では為政者の選任など統治制度が確立され、強者と弱者の状態が正当化される。第三段階では合法的権力から専制的権力への変化がおこり、支配者と奴隷の関係が正当化される。

しかし第三段階に至ると、歴史は反転して、社会は再び自然状態を目指すようになるはずだ。なぜなら完全な専制政治のもとでは、「すべての個人はふたたび平等になる。というのは彼等は無であって、家来にはもはや主人の意思のほかになんらの法律もなく、主人には自分の情念のほかには何の規則もないので、善の概念と正義の原理が再び消え失せてしまうからである」

そういう状態にあって、人々が奴隷であることをやめて自由を求めようとすれば、専制者にはそれを止めることはできない。「ただ力だけが彼を支えていたのだから、ただ力のみのよって彼は倒されるのである」

ルソーのこの展望が、彼が実際に生きていた社会、つまり革命前夜のフランスの政治社会を踏まえていたことは、たしかなことのようだ。当時のフランスは、絶対王政が君臨して、ルイ14世のいった「朕は国家なり」の言葉通り、国王だけがすべてで、それ以外の人民は無だった。それ故人民は力によって、自由を取り戻そうとしたわけだろう。

この本は、一方で自然状態の理想化をかかげるとともに、政治的には絶対王政への対立と革命の理論的な根拠として、大きな影響をもった。ロベスピエールの描いたフランス革命の理念は、平等社会の実現であり、それはとりもなおさず、ルソーの議論を踏まえたものだったのである。





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