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真理について


真理とは存在が隠れなく現われること、即ち存在の顕現だとハイデガーはいったが、そうだとすれば、では誰に対して顕現するのかという問いが出されるのではないか。というのもハイデガーは、存在が隠れなくあらわれることについて、その証人のようなものを要請しておらず、存在はそれ自体で自らを隠れなく顕現するものであり、その顕現が真理なのだと言っているからである。然し仮に存在が自らを隠れなく現わすとして、それを受け止めるもの、つまり目撃する者がいなければ、真理にいかほどの意味があるだろうか。真理が意味を持つのは、それが人間にとっての真理であるからなので、人間を度外視した所では、何らの意味も持たない。そういうわけだから、ハイデガーの存在論は、こと真理に関わる限りにおいては、認識論と無関係ではありえない。

こんな議論を持ちだしたのは、ハイデガーの真理についての議論が、それまでの哲学的な伝統であったところの、認識論とのかかわりから解放されたという受け止め方が強まった事情があるからだ。それまでの哲学的な伝統においては、真理とは対象と認識との一致をさしていた。つまり認識論の問題だったわけである。ところがハイデガーは、真理は認識論の問題ではなく、存在論の問題だといった。存在論とは、ハイデガーによれば、存在者の存在についての議論であるが、それはとりあえず人間の認識作用を度外視して論じることができる。人間の認識作用を度外視して存在を論じれば、存在者の存在のあり方を、それ自体として論じることになる。そういう論じ方においては、真理とは存在がそれ自体として隠れなく自らを現わすというような言い方になるわけだ。その真理を人間が認識することがあっても、それは存在にとって二義的なことで、存在にとっての真理とは、人間との関係における相対的な事柄ではなく、存在の存在自身との関係における絶対的な事柄ということになる。

しかし、ハイデガーにおいても、存在者の存在について、人間という存在者の存在のあり方、それをハイデガーは実存といっているが、その実存のあり方をモデルにして存在を論じていた。そして実存の本質は時間だというのが、ハイデガーのとりあえずの結論だった。ところで、真理は存在の顕現だという場合に、その顕現は時間のなかで行われる。存在の顕現は、時間のなかで成就するのだ。しかし時間とは何だろうか。ハイデガーによれば、時間とは人間の有限性に根差しているという。人間が有限な存在であるということから、時間が成立するというのである。人間という存在者には、始まりと終わりがある。その限られたあり方を示すものとして時間が成立するというのである。もしも人間が不死の存在者であったなら、時間というものは成立しなかったであろう。不死の存在には永遠に変わらないという属性があるが、永遠とは時間の否定なのである。

真理は存在の顕現だという場合、その顕現は時間の中で成就する。時間のなかで成就するとは、人間という存在者の存在のなかで成就するということだ。何故なら時間とは人間にかかわる概念であって、人間以外の存在者については、それ自体としては、時間は問題になることがないからだ。人間以外の存在者の存在は、それ自体としては時間を内在させていない。時間を内在させているのは、人間という存在者の存在だけなのである。つまり時間とは、人間の存在の本質をなすものであって、ほかの存在者が時間とかかわりを持つのは、それが人間とのかかわりの場に置かれる限りでしかない。

ここで、問題をもとに戻すと、真理とは存在が隠れなく現われること、すなわち存在の顕現だといったが、その顕現は時間の中で成就する。ということは、真理は人間の内部で成就するということだ。人間の内部で成就するという表現がわかりにくければ、人間の認識作用のなかで成就すると言い換えてよい。そうすると、真理は人間の認識作用との相関関係において生じてくるもので、したがってすぐれて認識論的な事柄なのだということになる。

人間の存在は有限だといったが、その有限な人間の認識能力もまた有限である。人間は、プラトンが言うように、永遠のイデアを一瞬にして直観できるわけではない。イデアというのは、存在者の存在の本質的なあり方を現わす言葉だが、その本質存在を、人間は一瞬にして直観できるようには出来ていないのである。人間の認識能力は限られているから、ある事柄を十全に認識するためには時間が必要である。一定の時間のなかで、対象の様々なあり方を、同一物の異なった現れとして捉えながら、その同一物についての認識を成就する。その成就は、同一物に名前を与えることによって行われる。名前を与えられた対象が、そのようなものとして、私の意識のなかで現前化するのである。

その現前化のなかでは、過去把持が行われている。現前化した同一物としての対象は、その個別のさまざまなあらわれを、過去把持という形で伴っている。過去把持という形で伴われた個別の様々な現象を通じて、変わらずにいる同一物、それが対象の真理として浮かび上がってくるのである。したがって、真理とは対象が隠れなく認識しつくされている事態を現わすといってよい。だから真理とは認識論的な領域の事柄なのである。それをハイデガーは、存在論のタームで語った。存在論のタームで語れば、真理とは存在が隠れなく現われる、というふうに表現されるわけである。

従来の哲学の伝統にあっては、真理とは認識が対象に一致することだと言われて来た。その場合、この一致は一瞬にして成立するかのように思惟され、また対象は永遠のイデアとして、普遍的な内容からなっていた。しかし、真理は時間のなかでゆっくりと成就するものであり、成就された内容は永遠のイデアなどではなく、他を通じて自己を貫く同一物だということがわかってきた。そしてそのようになるのは、人間の認識能力が限られているからだとわかってきたのである。

前回の議論(弁証法について)のなかで、弁証法とは、人間の認識能力が限られていることをふまえ、十全な認識を獲得するために考案された方法だというようなことを言った。その弁証法が目ざしたのは、ほかならぬ、ここで議論してきた真理だったわけである。真理は時間のなかで成就するといったが、それは自ずから成就するわけではない。弁証的な手続きを経て、さまざまな見方を戦い合わせることを通じて、ゆっくりと成就してゆくものなのだ。




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