知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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意識と無意識


フロイトが無意識の人間に及ぼす深刻な影響を指摘した時、西洋哲学はこれを無視した。その無死の仕方は本能的といってもよかった。何故なら西洋哲学の伝統は人間の意識を舞台に展開されて来たからであって、意識以外のものが人間を動かすなどとは、意識についての学問である哲学を否定するに等しかったからだ。デカルトが「我思う故に我あり」と宣言して以来、意識こそが存在の根拠だったわけだし、存在についての学問である哲学にとっては、意識を除外しては何事も語れなかったのである。そこにフロイトは無意識という概念を発明した。しかもその無意識が人間の行動を左右すると主張した。西洋哲学にとって、これほどスキャンダラスなことはありえなかったのである。

フロイトが無意識を発明した頃、西洋哲学は新カント派を始めとして、カントの影響が強い時期にあたっていた。カントはデカルトと同じく、意識を舞台にして哲学を展開した。かれの超越論的哲学は徹頭徹尾意識にこだわっている。意識の働きを明らかにすることが哲学の目的とされていた。そういうカントの思想が当時の哲学を支配していた。フッサールの現象学も、意識についての学だったのである。カント的な考え方にあっては、意識こそが人間の本質を解明してくれるばかりか、存在の根拠とも認識されていたのである。だから、ある種の精神疾患のように、正常な精神活動を営めない意識は失敗した意識と見なされた。失敗した意識であって、意識の不在とは考えなかった。なぜなら意識は存在と等価であって、意識が不在なところでは、存在もまた否定されなければならなかったからである。

フロイトは、無意識の起源を抑圧にあると考えた。人間は、自分にとって都合の悪いことを抑圧する傾向が強い。否定ではなく抑圧である。否定は意識の対象を全面的に意識から追放することを目指すが、否定そのものは意識の働きなので、対象が消滅することはない。否定的なものとして存在しつづける。したがって常に意識の表面に戻って来る可能性がある。それにたいして抑圧は、自分にとって不都合なことを意識しないという働きである。意識しないのであるから、それを意識的に思いだすということはない。つねに意識から排除されている。そのことをフロイトは無意識といったわけだが、無意識とは意識がなくなるということではなく、意識の表面に浮かび上がってこないという意味だ。デカルト的な考えでは、意識の表面に浮かび上がってこないものは、存在しないと同じことだが、フロイトは、存在していながら、意識の表面に浮かび上がってこないものの存在を認め、それを無意識と名付けたのである。

無意識の起源は抑圧にあると言った。抑圧の対象になるものは、人間にとって不都合なものだが、その最たるものは性的欲望である。フロイトは人間を性欲の塊のようなものと考えた。人間の本質は性的存在というところにある。にもかかわらず人間は性欲を抑圧しようとする。何故か。その理由についてフロイトは色々なことを言っているが、いずれにしても性欲は、人間の本質的な衝動であるにもかかわらず、抑圧されるのである。その抑圧が、欲望をいわば潜航させ、その潜航させられた欲望が無意識の衝動となって、ときに人間を突き上げ、異様な行動をとらせる。行動が異様になりやすいのは、それがそもそも抑圧されていた衝動の開放という形をとるからだ。

こういう考え方は、あくまで意識の学をめざす哲学にはとうてい受け入れることができない。無意識の存在を認めれば、意識だけを人間の人間としての存在のあり方とするわけにはいかないからだ。人間は意識として現象する。そこには意識以外のものの介在する余地はない。人間というもののあり方は、意識という透明な場を舞台にして展開される芝居のようなものなのだ。ところが無意識は意識の底に横たわる不透明な膜のようなものである。ときたまその膜が破れ、その中から意識的な制御に服さない不気味な衝動が突き上げて来て、人間の行動を支配する。衝動に突き上げられている人間は、合理的な存在とは見なされない。かれは不合理な衝動に突き動かされているのであるから、自立した存在とも見なされない。不気味な衝動の奴隷に転落するのだ。

要するにフロイトは、人間を動かすのは意識の働きだけではなく、無意識と呼ばれる不気味な衝動によっても動かされているとしたわけである。これは西洋哲学にとっては、青天の霹靂のような事態だった。もしフロイトのいう無意識の存在を認めれば、意識だけを前提としてきた西洋哲学の伝統は根底から覆ることになる。人間の存在のあり方を、意識だけではなく、無意識にも立脚させる必要がある。しかし、言うは優しく、なすは難い。西洋哲学はだから、長いこと無意識の存在を無視するフリをしつづけたのである。フロイトの説はいまだに西洋哲学に受容されるに至っていない。精神分析というかたちで、精神疾患の治療にかかわる実践的な手法を支えるものとして流通しているに過ぎない。

無意識の分析は人間の精神をトータルに把握するについて欠かせないものだとの認識は高まってきてはいるが、まだ全面的な共通理解とまでには至っていない。無意識の捉え方も色々ある。フロイトにつづいてユングも、無意識についての研究を進めたが、ユングとフロイトでは、無意識の捉え方がかなり違う。簡単にいうと、フロイトが無意識を後天的な獲得物だとするのに対して、ユングは無意識に先天的な要素を認めることだ。ユングはその先天的な無意識を、人類として遺伝的に受け継いできたと考える。無意識を、実体を伴ったものとして考えているわけだ。それをユングは集合的無意識と呼んでいる。これは部外者には荒唐無稽に聞こえるが、精神疾患の治療現場では、かなりの実績を上げているようだから、ユングの説を一概に退けるわけにもいかないようだ。

夢が無意識と何らかの関係があるとは、昔から漠然とながら認められてきた。人間が夢を見るのは意識的にではない。だから無意識から見るのかと言えば、そうでもないと考えられてきた。無意識は意識の不在をさす言葉だが、夢を見ている時にも意識はある。意識がなければ、そもそも夢を見ることもできないからだ。だから人々は、夢は意識の錯誤、あるいは意識の譫妄の働きだと考えた。あくまでも、意識主体にものごとを理解しようとしたわけである。意識のなかの特別な意識の状態、そういう意味でなら無意識という言葉を使ってもよいが、それはフロイトやユングがいうような意味での無意識ではなく、意識の一つのあり方なのだと考えたのである。

このように、西洋哲学の伝統における意識の位置づけは特権的なものであった。フロイトが無意識の存在に人々の注意を促したのは、たかだか百年前のことに過ぎないから、これが西洋哲学の王道に導き入れられるのは、まだ先のことになるかもしれない。




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