知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学仏文学プロフィール 掲示板




精神と身体


デカルトが精神と身体をそれぞれ別個の実体として分裂させて以来、人間はもっぱら精神的な存在として捉えられて来た。「我思う故にわれあり」という言葉には、人間は精神としての存在だという意味が込められている。人間にはたしかに身体が付随しているが、それは本質的に重要なことではない。身体と精神とは、それぞれ全く別の次元に属するのであって、したがって身体と精神との関係は、必然的なものではなく、偶然のものでしかない。身体は精神とは分離して存在することができるし、精神は身体なしでも活動できる。精神の働きは意識という形をとるが、意識はとりあえず身体とは別のものである。

こうしたデカルトの考えによれば、身体はあくまでも意識にとっての客体でありつづけ、意識の主体となることはない。人間のなかの精神的な実体が意識するのであって、身体が意識することはない。身体は意識されるもの、意識の対象つまり客体にとどまる。客体であるから、それは精神による支配の対象ともなる。それゆえ、そういう関係においては、精神が主人であり、身体は奴隷である。主人が奴隷を意のままに処分できるのと同じように、精神は身体を意のままに処分できる。こういう考え方は奇異に思えるが、奇異でない証拠には、こういう主張を真面目にする人がいる。たとえばフェミニストだ。フェミニストの多くは、自分の身体は自分で自由に処分できると考えている。だから男女の性愛において、女が金をとって男に身体を売る行為は別に不道徳なことではないと主張する人もいる。身体は、精神とは別のものであり、精神が自立していれば、身体の酷使はあまり問題にならないという理屈からだ。

性愛にあっては、自分の存在がおびやかされるような体験はまれであるから、このような考え方をしてもたいした不都合は生じないかもしれない。しかし、拷問のような場合にはまた別の問題が生じる。拷問の本質は、身体=肉体の支配ではなく、精神の支配である。相手の精神を屈服させることで自分の意のままに動かすことが拷問の本質である。何が相手の精神を屈服させるのか。それは身体=肉体に加えられた苦痛である。その苦痛から逃れたいという衝動が精神を屈服させるのである。この屈服の瞬間には、精神は身体と不可分の関係にあるはずだ。この場合、身体の痛みが精神を動かす、という表現は適切ではないだろう。そういう表現では、身体と精神とが別物だという可能性を排除できないからだ。あるいは身体からのシグナルを受けて精神が判断したといえなくもない。そうであれば、身体と精神とが不可分だと考えなくともよい。しかし実際には、拷問による苦痛の極限においては、身体と精神とは別のものではありえない。私は私の身体から発せられた苦痛のシグナルを受けて、拷問に屈服することを決断した、というふうにはなっていない。私は身体として拷問に屈服したのだ。その場合の身体は、精神と一体化しているはずである。

なかにはひどい拷問を耐え忍び続ける人もいる。そういう人に拷問を続けると死に至らしめることになる。こういう人については、あるいは精神が身体の苦痛を克服したという言い方ができるかもしれない。そういう言い方をすると、身体からのシグナルを精神が無視したということになり、精神と身体とが別物だとの認識につながりかねない。だが、こういう人は、拷問によって死ぬのが確実である。死んでしまっては、精神の自立も何もあったものではないだろう。身体としての死は、精神の死をも意味しているのであるから。ここで精神を魂と読み替え、魂の不死を持ちだす人がいるかもしれないが、それは宗教の話をしているのであって、論理的な議論をしているのではない。ここでは、あくまでも論理的な議論をしているつもりである。

以上の議論から浮かび上がってくるのは、拷問においては、身体と精神とは不可分であって、精神はいわば身体を通じて思考するということだ。しかし、思考するのはあくまでも精神であって、身体そのものは、思考はしないという構図になっているようだ。だが果たしてそうか。身体は、思考のきっかけをもたらすが、それ自体では思考することはないのか。そのあたりを明らかにするには、身体と思考との相関関係について、もっと突っ込んだ考察をする必要がある。

意識の直接的与件が感覚からもたらされるとは、カント以来の常識になっている。カントのその考え方には、イギリス経験論が強く影響しているのは周知のことだ。その意識の直接的与件である感覚的なものを、知性の側にアプリオリに備わっている枠組みに当てはめることで、高度の認識が生じるとカントは考えた。そこで重要なのは、意識への感覚的な与件がどのようにして与えられるかということだ。カントは、意識の働きにともなう時間の契機をあまり重視していない。だから感覚的な与件は、時間の幅を有さぬ瞬間的な現象として意識に与えられ、それを知性が料理するという構図になる。カントによれば、われわれの認識は、感覚的な与件であるなにものかを、あるものとして認識するのであるが、そのあるものとはカテゴリーで代表される普遍的なものである。人間はこの普遍的なものに個別的なものを当てはめることで、個を普遍の一つのあらわれとして認識するのである。

この場合に、個物は一瞬にして意識に与えられるという構図になっている。しかし、意識の働きによく注意すれば、個物が瞬間的に与えられるその仕方は、個物が内包する要素の一部分でしかない。たとえば我々は家の全体像を一瞬にして見るわけではない。家の前面とか、側面とか、上からの眺めとか、それぞれ家の一面を別々に見ながら、それらを一つの家の別のあらわれとして統合することで、家の全体像を認識するのである。したがってそうした認識のプロセスは一定の時間の幅を前提している。我々の認識は、時間のなかで営まれるのである。なぜそうなるかと言えば、我々は精神としてだけ思考しているわけだはないということだ。我々が家の全体像のうち一面しかとりあえず見ることができないのは、我々が身体として生きているからなのである。身体がその時々に取る態勢によって、対象の見え方は異なる。その異なった対象の見え方を、一つの対象の違った現れとして見ることで、対象を同一物として認識するわけだ。だから我々は、身体として思考するともいえるのである。

認識とか思考とかいうものと身体との相関を問題として取り上げたのはメルロ=ポンティだ。メルロ=ポンティは現象学の方法を用いて人間の精神作用を分析したわけだが、その作用には身体が深くかかわっている。我々の認識は、身体の態勢によって大きく制約される。だから身体の契機を正しく位置付けなければ、人間の精神作用を理解することは出来ない。そうメルロ=ポンティは考えた。

さて感覚にはいくつかの種類がある。その中でもっともインパクトの強いものは視覚なので、我々の認識作用は視覚中心になりがちである。西洋哲学を称して観想哲学とはよくいわれることだが、それは認識における視覚の優位を物語っている。プラトン以来人間の認識は光と深く関連づけられてきたのだったが、光とは視覚を成立させるものなのである。だが人間の感覚は視覚だけではないし、視覚だけで認識を語ることは出来ない。ハイデガーは認識における触覚の重要性を強調したのだったが、触覚以外の感覚、たとえば臭覚や聴覚あるいは味覚といったものも人間の認識に大きな働きかけをしている。従来の哲学は、そうしたものの意義をほとんど考慮に入れてこなかった。それではやはり、人間の認識をトータルに捉えることはできないだろう。




HOME 反哲学的考察次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2019
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである