知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学仏文学プロフィール 掲示板




ユダヤ人としてのレヴィナス


レヴィナスは、リトアニアのカウナスに生まれ、フランスで自己形成をした。第二次大戦時にはフランス兵として従軍したが、すぐにドイツ軍の捕虜になり、終戦まで捕虜収容所で過ごした。その間にカウナスにいる自分の親族はすべて殺されてしまった。ユダヤ人であるレヴィナスにも殺される可能性がなかったわけではないが、一応フランス兵としての処遇を受けていたので、なんとか生き延びることができた。しかし、愛する家族が皆殺しにされ、自分だけが生き残ったことに、深い絶望を感じたように思う。レヴィナスの独特の倫理学には、そうしたかれの絶望が反映しているように思われるのだ。かれの倫理学は、二人の人間の間に成立する関係を中心に展開されるものだが、その関係は非対照的なものであり、あたかも神と人間との関係の如くである。そしてその神が、レヴィナスは積極的な定義は控えているが、ユダヤの神であることは間違いない。レヴィナスはユダヤの神に向き合うことで、自分自身の、ひとりの人間としてアイデンティティをつかみ取ろうとしているように見える。レヴィナスにとって神は、どうやら自分自身の自己イメージでもあるようなのだ。

レヴィナスの哲学が、ほとんど倫理学に還元されることは、ユダヤ人としてかれが生きた苦難に根差しているように思える。倫理学とはレヴィナスによれば、人間同士の関係についての学である。レヴィナスはその関係を社会性と言っているが、とりあえずは二人の人間の関係としてあらわれる。つまり私と他者との関係である。その関係にあって、他者は顔として現前する。現前するという表現は、伝統的な認識論を想起させるので、レヴィナスはあまり好きではないらしく、到来という言葉を使っている。他者は顔として到来する。その到来の仕方は、まったく突然のことで、そこには私が介入する余地はない。私の意思とかかわりなく、わたしの前に到来するのである。この到来の仕方の、私にとってのコントロール不可能性が他者の本質的な特徴である。他者は私とは絶対的に異なるものとして、しかも私と切り離せない密接性を帯びるものとして、両義的な性格を指摘できる。そのような他者は、とりあえずは隣人という言葉で表現されたりもするが、その内実をよくよく見ると、神のイメージが隠されていることがわかる。他者はレヴィナスにとって、究極的には神のようである。だから私の他者とのかかわりあいは、私と神との関係をモデルとして考えられる、と言えそうである。

他者に神のイメージが持たされているのは、他者に対して私がどのようにふるまうべきかについてのレヴィナスの指示から見て取ることができるようだ。レヴィナスはとくに「存在の彼方へ」で、私が他者に対してふるまうべきその仕方について、何度も念押しするように、書いている。それは、私は他者に対して責任を負っているということである。責任とは、他者のすべてを私が受け入れ、他者の罪さえも引き受けねばならぬということであり、他者の罪のために私が償いをせねばならないということである。この一方的な責任を帯びた人間としての私は、他者の身代わりのようなものである。なぜそうまでして私は他者に責任を負わねばならないのか。非ユダヤ人にとって不可解なこうした考え方も、ユダヤ人のレヴィナスには当然のことであったようだ。というのは、こういう非対称的で一方的な関係は、神との間でなら全く不自然ではなく、むしろ当然のことだろうからだ。

その他者が私に向って発する言葉は、「殺すな」だとレヴィナスはいう。他者からのメッセージはほとんどこれに尽きると言ってもよい。するとりあえず私にとっての他者とは、殺すべきではない相手ということになる。これは私と私の相手との間で成立する格率だが、私以外のすべての人のケースでも成り立つはずである。すべての人間についてこの格率が成り立ち、しかもすべての人間がその格率を実行すれば、この世界から殺戮はなくなるに違いない。ところが殺戮は依然としてこの世界に充ち満ちている。ということは、格率は道徳的要請にとどまり、人々への絶対的な強制にはなりえていないということだ。だから、この格率は空しいというのではない。現実に殺戮が絶えないからこそ、それを道徳的な格率としてかかげ、その意味を人々に考えさせなければならない。そうでなければ、殺戮は止まないどころか、むしろ合理化される恐れがある。そうレヴィナスは考えて、あえて「殺すな」の意義について、どこまでもこだわっているように見える。

レヴィナスが「殺すな」にこだわったワケは、ユダヤ人が民族として被ったホロコースト体験にあるのだと思う。この過酷な体験においては、ユダヤ人は個別的な人間としてではなく、抽象的な数字に還元され、全体性のなかに解消されてしまった。これは、人間を私にとっての他者としてではなく、私の認識の対象として、私の認識の全体性に包摂されるべきひとつの契機に過ぎないとする考えがもたらしたものである。そういう考えをレヴィナスは全体性の帝国主義と呼んで、その非人間的な性格を激しく糾弾し、そうしたあり方に対して、全体性からはみ出た無限として他者を捉え返したわけである。もっともこれは、レヴィナスによる倫理的な要請のようなものであって、それが実際の人間関係を律するだけの力があるかについては、別の問題なのであるが。

要するにレヴィナスが言いたかったことは、人間は全体性の一つの契機として包摂されてしまうような、抽象的な存在ではありえないということだ。レヴィナス程人間の個別性に拘ったものはないが、それは一人の人間を、他の人間では置き換えられない特別の存在だと認めることから、初めて倫理的な関係が生じるということを言いたかったからにほかならない。それゆえレヴィナスは、自分たちユダヤ人を、ユダヤ人として自己イメージすることに抵抗を感じたに違いない。かれの倫理学の出発点は、ユダヤ人が民族として被ったホロコーストだと言ったが、その結果かれが導き出したものは、ユダヤ人のユダヤ人としてのアイデンティティとか、神から選ばれてあることとか、要するにユダヤ人のユダヤ人たる所以を強調することではなく、ユダや人を一人の人間として、隣人として遇してほしいという希望だった。その希望は世界中の人々に向けられている。それをレヴィナスは、「殺すな」という言葉で表現する。

もっともレヴィナスは、ユダヤ人の学校に関わったり、自分のユダヤ人としての出自を比較的オープンにした思想家であり、またユダヤ教の経典に強い関心を示しつづけた。それは一人の個別的な存在者であろうとすれば、どうしても自分の生きて来た環境に足場を定めなければならぬとの思いからだったように思える。レヴィナスの場合、彼の生きて来た環境というのは、ユダヤ人性ともいうべきほかない、ユダヤ人としての生き方を支える足場のようなものだったと言えるのではないか。かれほどユダヤ人としての自覚にたって、しかも普遍的な問題について思考した思想家はほかにあまり例がないように思える。

ところで、レヴィナスはユダヤ人が被ったホロコーストには敏感だが、ユダヤ人がパレスティナ人を相手に振る舞っていることについては、あまり語りたがらないようである。ユダヤ人がパレスティナ人を相手に行ったことも、ホロコーストの範疇に入るようなことだったと思うのだが、そうした加害者としてのユダヤ人についてレヴィナスが語っているところを読んだことがない。もっともそれは小生の不勉強に過ぎないのかもしれないが。




HOME レヴィナスを読む 次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2019
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである